銅板の忘られない印象
南薫造
『みづゑ』第八十一
明治44年11月15日
銅版の忘られない印象
南薫造
b:昨年の秋、上野公園内精養軒に於て、黒田清輝氏の祝賀會が催された時、自分は初めて大下藤次郎氏に會つた、親しく話をした。不幸にして之れが前後、只一度の會合であつた。
個人的の交りは、斯くの如くであつたけれども、然し乍ら、氏の名を知り氏の作品を見て居るのは、既に十年にも及ぶ、畫家としての交りは、其の個人的の交際よりも、其の作品に於てする方が、遙に意味が深かい、其れで氏の名を聞く時には、自分がまだ、氏に遇はなかつた以前に於ても、既によく知つて居る人の名の如く考へられて居た。
自分が初めて氏の名を知つたのは、十數年前、まだ田舎の中學校に、生徒であつた時に『水彩畫の栞』の發刊せられた時であつた。書物の挿繪や、印刷物の他に洋畫と云ふものゝ智識を、少しも持たなかつた當時の自分には、此の書物は、よき賜物で、多くの技法を敎へられた、中に挾まれた銅版の「早稻田の秋」(と覺えて居る)は何時迄も忘れられない印象を、幼なかつた自分の頭に與へた。
勤勉なる氏の作に就いて此所に管々しく、稱讃の詞を述べなくても、世の既に熟知して居る處である。 氏の晩年數年間の製作は、自分が外國に居た爲めに、見る事が出來なかつたが、今年久振りにて、公設展覽會に於て見て感が深かかつた。
十數年前初めて「水彩畫の栞」に依りて景色を見る爲めに、黒枠を造る事を敎えられた自分は、今日氏の令息から、黒枠の附せられた書を送られて、誠に悲しみに堪えぬ。
終りにのぞんで、此の「みづゑ」が、氏の逝去と共に、廢刊になる事を誠に遺憾に思ふ、折角これ迄續けられた此の雜誌は、誰かによつて、後を嗣がれん事を、切望して止まない。(十六日、雨のしとしとと降る日。千駄ヶ谷の寓居にて)