素人の偽らざる畫評
山崎紫紅ヤマザキシコウ(1875-1939)
山崎紫紅
『みづゑ』第八十一
明治44年11月15日
大下君にお目に掛かつた最後の日は、文藝協會私演の初日でありました、奥さんと御一緒に、見物されてゐた、私も幸ひ連れもなし、その席に割り込んで、「人形の家」から舞、踊劇の一二と見て三の「鉢かづき」を殘して歸りました。すると翌日畫ハガキを頂戴した。
「切の鉢かづきは、中々實があつて、面白く見ました、とに角配合もよく、近頃にない愉快を覺えました」とある。十月、私は旅をしました。臺灣へ行つて、臺南、臺中を見物して再び臺北に出た日に、其地の臺灣日々新聞を見て、始めて大下君の訃を知つたのです。しかし私は眞實だと思ひません、平素からあまり丈夫な方ではないが、十日や十五日の間に人間の死、永遠の別れ、そんな事があるなんぞと、どうして思へるものですか、その時私は迷つたのでした、だが新聞の記事は偽りではないやうです。よしあまりに輕率だと笑はれても、とに角御挨拶だけは致して置いた方が禮を失はない譯になるのであらう、そこで奥さんに宛てゝ悔み歌を出したのでした。
十五日の笠戸丸で私は内地に歸りました、そして種々の新紙を見ました、而して南清の事件よりも、私に直接に受けた感じは、やはり大下君の死でありました。私はまだ文部省の展覽會に參りません、今日歸つたばかりで、旅装も解かないのですから、まだ兩三日は出られますまい、私は花環を捧げてあるといふ大下君の「みづゑ」の前に立つ、痛ましい感じを身に受くるを恐れてゐます、私は我慢強うございます、大下君の畫の前に冷然として、その出來を試驗する氣で立たうと思ひます、しかし私の眼は果してその任務を完うすることが出來るであらうか、「僞らざる素人の畫評」、これは故人が好きなものゝ一つでした、私はよく畫室の中で批評を乞はれて、困つた事がありました、それでも時々、恐る恐る(先輩に對する遠慮から)云ふ素人の盲評をどのやうに喜ばれてゐられましたらう。
私は故人に對する禮として、僞らざる評をしたいと思ひます、大下君の作を冷然として見たいと思って居る・・・・・・・・・・之れが私に出來るだらうか。
(十月二十日夜臺灣より歸りたる後、五時間にして)