畫伯はお達者
前田林外
『みづゑ』第八十一
明治44年11月15日
梅雨の頃であつたと思ひます。或る暗い冷たい晩に大下さんは丸山晩霞さんと共に私をお尋ね下さいました。その晩(!)沼や湖や鈴蘭や林抔の話しも出ました。私が林には獨りで逆びにくひ、青鷺や白鷺は沼の庭鳥だと申しますと、大下さんは畫家は妖怪を恐れてはゐられない、獨りで林に入らなければならぬ。なるほど沼の水は靜である、庭とも見えるとて微笑まれました。叉淺間山の鈴蘭の花、北海道の鈴蘭の花、この比較話も出ました。その後、私は大下さんにはあまりお目にかゝらなかつた。が、すゞ蘭の香による黄な蝶々の繪葉書や、其の外のを折り折り旅行先きから下さいました。で、お情の温かい畫伯はいつもお達しやだと思つてをりました。と、先日突然正男さんから黒枠のお葉書でした。私は非常に驚きました。どうしても夢としか思ひませんでした。旅行!大下さんは只今も矢張り旅行を――お宅へ返り得らるゝ旅行をつゞけてゐらつしやると私には思はれます。深い林や靜な靜な湖の畔で、淋しい景を獨りで靜に畫いてゐらつしやると思はれますが。