思出で多きアルバム
神東惇
『みづゑ』第八十一
明治44年11月15日
△大下君は逝かれた、何の合圖もせずに突然逝かれた、自分には宛然夢の樣に思はれる、逝かれるならなぜ前に知らせて呉れなかつたらう、「海洋」の表紙も頼むのだつた、瀬戸内海の大物も御願するだつた、何時でも出來ると思つて居たが‥‥ア、‥‥モー大下君には此の世では何にも畫いてもらへぬ!君の柩を秋深き雜司ヶ谷に送つた三日目の夕、虫の聲に圍まれた家の内にアルバムを繰り廣げつゝ新に逝きし友の俤を忍ぶ。
△最初目に着いたのは四十一年の五月上野精養軒で開いた太平洋畫會の晩餐會席上で自分が紀念に書いてもらつたもの、一枚の葉書の上に鴎外博士の「案心」と云ふ題字、吉田君のアラビヤ文字、滿谷君、石川君河合君等の自畫像の下に「汀鴎」と小さく書いたのが君で畫題を付くる可否を論じた後であつたと思ふ、君の署名は何時でも是れで自畫像は書いたことがない様だ。
△其の次ぎのは多摩川の日向、和田からよこされた畫葉書で杆の輪廓の中に河原を見せ下に「昨日多摩川畔へ參り候昨年來濁水に相成景致を失ひ申候」とある、君は僕の畫葉書好きを知つて居られたので、旅行先から毎度肉筆の畫葉書を送られる、それが叉僕には何よりの愉快で皆アルバムに挾んである。
△尾瀬沼の漁師小屋に五夜を過し只今日光へ參り候委しくはその内拜眉萬々湯本にて」とあるは例の尾瀬沼行の紀念葉書で確か四十一年の七月であつた、此の畫葉書を受取つた時自分は日光山の奥の奥の大寂寞の内にある眞珠の樣な水を何んなに想像したであらう。
△數株の枯木水に映じ、人なき船の渚に捨てられたるスケッチの下に「景色は實によいが雨の爲めに富士が見えません二三日中に歸ります」とペンの走り書きは四十一年の十一月甲州山中湖の秋を訪ふて旅宿中屋から出されたもの、富士へ登つて見るのは參りに惡くどい餘りに露骨だと云つて裾野を愛する君の主義が思ひ出される。
△君が僕に寄せられた最後の葉書は八月三十一日附のもので海洋會の瀬戸内海旅行中、船の中で發行した海洋新聞を贈つた返事で「いつも趣味方面の御盡力敬服致候」云々と大に海洋旅行に賛成された、君等の作つた「寫生一週」の最初の製本を貰らつて其れを見つゝ内海を巡遊した爲め大に趣味と實益を得た自分は「先頃は瀬戸内海の遊覽有之候由定めて面白き事も多かるべく存候いつれ拜眉のせつゆるゆる御伺申上候」との君の手紙にゆるりと會合して大に内海の景觀を聞かうと思つて居たに‥‥‥其れも果たさないで此んな思出でを書くことゝなつた。
△去年の一月稀有の大雪の日に山岳會の晩餐會を代々木の志賀四松庵に開いたが、其の時君と晩霞君と僅か三人が幹事役であつた、四松庵を良く知つてる筈の僕でさへ大雪の爲めに迷つてしまつた、初めての君は妻君同伴で代々木の大練兵場の内で迷つてしまひ終には足袋洗足とまでなつて一時間も雪の上を右徃左往した末やつと會場に着かれたさうであつたが、其れでも當日の先登第一、遲ればせの僕は大に申譯がなかつた、君が何事にも責任を重んじパンクチユアルに振舞はるゝのは君を知る人の何れも敬服する所で君が成功の要素であつたらうと思ふ。其の席上で會員中の絶頂派と裾野派を分けて見たが君は無論裾野派の勇將、展覽會毎に見る君の作品は遺憾なく是を證明して居る。
△水彩畫家としての君は一面に於て文章家である、批評家である、雄辯家である、そして敏腕な事務家である、君の文章は水彩畫の如く批評は極めて穏健、辯舌は爽かにして然も細微に亘り、委曲を盡す、其の上藝術家に稀に見る常識と經營の才は「みづゑ」の今日を現した所であらうと思ふ、其の「みづゑ」迄も君の長逝と共に廢刊すること」なつたのは僕に取つては實に二重の悲みである。