大下先生の著述に就いて
一愛讀者
『みづゑ』第八十一
明治44年11月15日
先生の著述を三大別に出來る。純なる畫家には歐米の例でも著述は少い樣だ、少いのなら未だよい、其作品はあつても、全然皆無の人々もある。中には自ら師導に專ら從事して、終に著述のために、立派なる作品を得る機會を失つた人々もある。歐米の事は詳しく知らないから申憎いが、我國では三宅克己先生、淺井忠先生、小山先生等はあるが、皆義務的とか、專ら師導の爲とかに出來て居つて、永く愛好する書物もあるが、多く眼が肥え耳がさとくなつて、打捨てられる物が多い。
我々の先覺者であり、恩人である大下先生と、一番親しみの深い根本義は、先生最初の著述『水彩畫階梯』であつたろう、あの書物の内に、挿入せられた巻頭の石版、殊に寫眞版水彩畫には、どんな色彩をして居るだろうと、今日でも記憶にある懐かしい追憶だ更に私淑する様に到つたのは精巧なる「風景畫帖」であつた、近くは畫家連合著の「瀬戸内海一週」「寫生旅行」「最近水彩畫法」等である。近日出た單獨の「水彩寫生旅行」は實に我々みづゑの愛讀者でなくとも、意を得た書物である、我々と共に同趣味自然の愛に耽溺して行こうとせらるる先生の恩浴には、感謝するのである。
これは頗る近代的日本洋畫の普及に、理想に近い書物と云つてよい。扨て之等先生の著を三大別にして批評すると云ふよりも先生の人格を思ひ到れば我々は足る、萬足である。
水彩畫楷梯、最近水彩畫法を水彩畫入門部となし、瀬戸内海寫生旅行の合著。其他を水彩畫趣味普及の部となし、水彩寫生旅行、風景畫帖を水彩畫の部となせば面白い感想が湧く。
性質上特色を異にして、統一せる主觀的の先生著述には、先生が水彩畫大家としての懇篤なる、いよいよ出てゝ親切、いよいよ出でて同情あつき我々水彩畫の愛好者いかさまと感謝の言葉より外にない。やゝもすれば、後進者に怠り勝な畫家に、先生の如き徳望を供へられた、敎育者としての畫家は少ない。機會さへあれば、水彩畫の普及に盡され、自ら告白して曰く、私の作品は地方の諸君に行きわたつて、私が持有せなくとも、水彩畫の普及のために惜しく思はぬ、と其けなげな人物を思ひ到れば、みづゑなる日本唯一の水彩畫專門雜誌によつて、月々主旨を完うされて居られる丈でも、我々は敬慕するのである。增して地方の我々には、見聞の乏しい土地に此等の殊に、美術に關する出版物の書店側でも、氣前よく受けて、出版が出來難い今日に自らも出資されて迄出版して、我々に同情をよせられる誠意は、例令へ豫告の書物だけでも滿足して居るのであつて、眼前に盛装した大下藤次郎と頭にしみ込んだ懐かしい姓名が現はれて、ちらつくからには、本店の店にあつて、自分の机上になくとも、そぞろ氣がもめるのは何が故ぞ、私淑して居ればこそ、愛好するのでないか。
水彩畫を修習するには「水彩畫梯段」をよめと、兄に敎へられた當時は中學の一年生時代であつたらうか、いや高等小學時代であつたろう、その時には兄さんの樣に思はれなくなかつたのは先生であつた。それからLSとかスケッチとか云ふ繪畫雜誌の出たことも一二年後であつたろう、が一番「みづゑ」が面白かつたが、父も母も私に月々の小使が少年の慾望として小刀やノウトに化けて、繪の雜誌にはたまたましか化けなんだもんだから見る機會がなかつたが、圖書館へゆくと必と繪の本をみた、繪の雜誌も見た、しかし「みづゑ」は、圖書館にはないので見なかつた。今では愛讀して居るが、斯くの如くして中學ではよく水彩畫等を圖書の時出して賞められ友達にも描いてやり、果して水彩畫のどんなもの位は、山奥の中學校の圖畫敎師よりは、よく知つて居る考だ。
水彩畫を愛好するやうになつたのは、誰のお蔭かと云へば、正直の所大下先生その人で友人など三宅克巳先生一天張であつたらう。私の兄さんの樣に思はれる先生が何故か一番親しみが深い樣に思はれる。茲まで書くと、先生の著述に對し、我々は限りない讃美をぜんと筆は著述に就ての筆を取つた時の感想が纒らずに、水彩畫の爲に先生に、我々が及ばず乍ら、推讃の辭を捧げんとする傾向になる。
これ我々が如何ともすべからざる現状であつて見れば、大下先生の人格を思ひ、あれを思ひ、これを思ひ、敬慕措く能はずである。
もう著述について、著述の有難い事を先生に告げればよい、三大別も筆を取つた最初の考も、捨てて矛盾と笑はば笑へ、先生に呉々も感謝して置きます、我々は又近くに先生が著述の「寫生畫の研究」てふ書物は多年先生の研究せられた實験談として、いかに益するところが多いであらう、旅の記事には先生と旅にある心地せられ、成程と合點ゆく繪畫の理論には、先生の徳望を慕ふのである。随感?を先生の御一笑に供す、先生如何となす歟。