弔辭四篇

五姓田芳柳
『みづゑ』第八十一
明治44年11月15日

 小生は大下君と交ること餘り深からず、曾て巖谷小波君等と青梅に紅葉を探りしとき、宿屋の寢巻の儘、突如訪問せしことあり、君は小生が四ッ谷に居住するとき、鵜澤四丁君等と、共に來訪せられしことありき、他は皆何等かの會合の際、出會せしに過ぎず、故に逸話等は一も知る所なし、只水彩畫に於て趣味を仝じくし、君が毎展覽會の出品は必ず眼を拭ふて之を見たり、今忌憚なく君が作品に就て一言すれば、妙は即妙なれども、未だ感服するに至らざりき、君は其誤りたる部分に於て、明に訂正補足したる苦心の痕跡を止め、看者に不快の感を與ふるを恒とせり、水彩は油畫と異り、殊に手法の鮮明にして、筆致の凝滞なく而して遠近深淺具に備はり、油畫の企及すべからざる一種の快感を與ふるものたるを要す、今?初夏太平洋畫會展覽會を見る、君の瀬戸内海方面、水彩畫數點あり、何れも水彩の特色を發揮し、叉前日澁滞苦心の痕跡を停めず、思ふに益々研鑽の結果に外ならざるも、此行同會鐘々の諸君と共に、轡を併らべ、自から長所を交換し、他山の石能く君を玉成せしめたるものと謂ふも不可なかるべし、小生謂らく、今や君は眞に水彩の大家たりと、皈つて之を遇ふ人毎に語りき、惜哉、天此人に壽を籍さず、四十叉二歳を以て終に冥宮の迎ふところとなる、鳴呼。

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