故大下藤次郎氏に對する諸家の印象、感想、逸事、短評


『みづゑ』第八十一
明治44年11月15日

 左に掲げましたのは、今回大下氏逝去と共に、諸家に御依頼して、故人に對する、いろんなことを書いていたゞいたのを、集めたものです。
 次第は不同に按排したのですから、お許しを願ひます。
 故大下君を始めて見たのは、たしか八九年前、西片町の小生宅へ水彩畫數枚を携へて訪問せられた時だと思ふ。君の温和な作品と上品な物越とが、如何にもよく一致して居るのに感じた。君の藝術は佯の藝術で無い、人格の表現であるのがまつ嬉しかつた。而して新藝術の趣味を普及する爲、あのやうに勉めた君の努力は、確に多大の効果があつたが、日本の現状がまだ永く君のやうな美術の教育者を要する今日、今更のやうに、世を早く去られたのが悲しくなる。 (文學博士上田敏)
 大下君と話したことは、小諸懐古園内の茶屋の二階で、後にも前にも唯一度きりでした。たしか彼の時は丸山晩霞君も一緒でした。美術のことも話せば文學のことも話す『苦勞した人と』いふ感じが、彼の面長な、すこし色の暗い容貌と共に、私の記憶に発つて居ます。 (島崎藤村)
 大下君は、畫家には實に珍らしい事務家で、其非凡の天才は作品の上よりも、寧ろ君が經營の事業の上に、遺憾なく發揮されて居たと思ふ。畢竟『みづゑ』と云ふ樣な種類の雜誌を、あれ程永く繼續させた其腕前は、確に他人の眞似の出來ぬ點であらうと思ふ。自分は大下君とは趣く古くからの知合で、近年の事より、古い昔の事程能く知つて居る。未だ『みづゑ』にも出ない樣な古い面白い話もあるがこ、れを書くと長くなるから、それは、他日に讓る。 (三宅克己)
 私は、繪の方の事は一向にわかりませんが、大下さんが東京に生れた人でありながら、山中の湖のやうな靜寂な自然にあこがれて居られた、その心持がたまらなく好きでした。大下さんと話をする時に、私はいつも、此の心持を感じました。大下さんが、圓滿温厚な人であつた事は、何人も同じく感じた所でありませう。併しその圓滿温厚の奥に、何ものにか深く沁み入らうとする力のあつた事を、私は感ぜずには居られませんでした。靜寂な自然を慕はれた大下さんの心持には、説明しがたい、何ものかの力が、ひそんで居たやうに思はれてなりません。私には忘れがたい藝術家の一人です。 (相島御風)
 僕と大下君とは、單に會の同人としての交情に過ぎなかつた、從つてしみじみ膝を交へて話した事はなかつたから、僕の見る所は、當つているかどうか疑問だ。
 自分が、常に一番大下君に感服して居つたことは、其處世の才のみなることであつた、繪かきさんには惜しい位の事務家であつた而してお弟子さん達を育てゝ行く感化力は、又仲々に強い者だ、皆が推服して居た樣に思はれる、昨年同人が、一處に小豆島に寫生に出掛けた時に、君がヒョロ長い體に、黒の長い「コート」を着て歩く風が、どうしても敎師の樣だと評したことがあつたが、全く君は一面には趣味普及の傳道師であつたのだ、君の繪は其巧拙に係はらず、常た女性的温和の情調が流れて居た。
  (高村眞夫)三十七年頃青梅の鵜澤四丁君から、當地には、外國歸りの水彩畫の先生が居ると曰ふ通知に接した、夫れが故大下氏である。對面せぬ間は、大下藤次郎、木下藤吉郎、何んとなく豊太閤の壯時を聯想して居た、其年の冬、青梅へ寫生旅行をした時、初對面をして、氏の人格及風彩の、想像以外なるに、ハテナと、チヨツト首をひねた事が有つた。 (大田南岳)
 水彩畫家として聲名ありし大下藤次郎氏の深山の奥、湖水等細く描かれたるものゝ内には傑作ありしと覺ゆ、同氏は大に文學に趣味を持ち加ふるに素人に水彩畫を普及せしむる爲め、特に盡力せられ或は水彩畫講習所を常設し、或は各地に講習會を開き後進の指導に努めたるの効沒すべからず、今や壯年にして逝く斯道の爲め實に措むべきことなり。 (寺田勇吉)
 大下君は水彩畫擴張の率先者にして、若くて成功された純水彩畫家である。去る明治十三四年頃ろ時々スケッチを澤山携帶せられ、相談に來られしこと度々ありし。初めの程は餘り感服せざりしが熟心勉強の結果、僅々三ヶ年程の間に大進歩を見るに至り、竊かに感服せしが、爾後益々向上せられ、現時は水彩の大家と社會が承認するに至つた。今や一朝風木の悲みに罹る、追悼及ぶなし、聊かみづゑ最終紀念號に資す。(本多錦吉郎)
 小生は、故大下君とは、昨今の御交際に有之、隨つて作品に就ての、批評の資格之無きに付、此の分は他の方に讓り、唯御交際の端緒、則ち昨春、醜團體たる東京勧業展覽會が、上野竹の臺陳列に開會せんとして、各美術團體を無視しての行動に對し、君は太平洋畫會代表者にして、叉小生等も共に東京美術團たる竹の臺茶話會委員として、當局者と交渉を遂け、首尾好く此醜團體を、不忍池眸へ驅逐したる一事に候、其交渉の際に於ける氏の辯舌理論等は、吾々畫家としては、倒底出來ざるものに有之、氏は畫事以外、別に外交的手腕を有した事は敬服に候、小生は今爾東京府の役人共を、氏が爽快の辯舌にて、説破したる光景を想起し候。 (鳥谷幡山)
 昨年小子吉野へ葉櫻を見物に參り候折、歸途、氏を訪問候時、京都の花の噂が出で候故、京都は常磐木の間に、花を植えてあるから、美感を起さずと申し候處、氏も同感に有之候、其年の夏、尾瀬沼に同行する筈に候ひしが、差支出で見合せ申し候、氏は尾瀬の如き處へは、年々生徒を二三週間、連れて行きなば縦令繪を描かずとも、美的精神修養と相成り候よし申され候、夫から庭に草花の吹きたるを、何花ぞと問ひ申し候處、サギサウと申され候、小生の地方のサギサウは、一層眞の鷺に似たるもの故、開花候はゞ、郵途申さんと約束申せしも、暑中は旅行中にて、途に機會を逸し候、以上は、誠に遺憾に耐えず候。
  (高須仁兵衛)僕が君と相知つたのは、何年頃であつたか、今からは彼是二十年も前の話しだ、併し其交情は、昔も今も仝じ調子であつた、君は常に冷靜な態度の人であつたが、叉趣めて親切な温情のある人で、少壯能く世故に通じ、常に事に當つて孜々として倦まず、諄々として、處理して行かれた態度は、余らの企及し得ない處であつた、近く瀬戸内海を周遊した時高松滞在の一夜そこの有志の招宴の席で、誰かのはだか踊りに、次で大下君が眞中へ擔ぎ出された、由來隠し藝に堪能でない君の事だから、殆ど策窮して、其儘廣間の中央に長いからだを横たへて居たのは、氣の毒でもあつた、未だに其時の印象が、頭に刻まれて居る、君の功績其他に就ては、充分定評のある事だから、僕は殊更に言はぬ。 (渡邊審也)
 大下君の永眠は餘り突然で驚きました。私は深く之を悲むと同時に、叉「みづゑ」の廢刊を惜みます。大下君の畫に就ては、世既に定評があるから今言ひませんが、同君は實に親切なる水繪の好敎師であり、熱心なる其宣傳者であり、旦つ綿密なる事務家であつたと思ひます。
  「みづゑ」の編輯ぶりに、同君の面目が遺憾なく發揮されて居ました。其發展は全く同君の性格と努力の結果だと思ひます。深く其廢刊を惜み、且つ謹んで弔意を表します。(坂井犀水)
 大下藤次郎君に對する追懐――左様さ、抦にない作品の批評などしても拙らない。――或る時、拙者が雜誌『學生』の口繪を頼みに往つて、いつ幾日までに書いて呉れといつて幾度も念を押すと、『そんなに度々云はずとも、宜しい承知しましたと云へば、私は屹度描きます、一日あれば出來ますからなア』と云はれた、それかす數月の後。父君を訪ふたが、恰度いたづら書した水彩畫を持つてゐたので、『これは何うですか』と見せると、『駄目ですよこれはお手本を見て描いたのでしやう、繪が死んでゐます寫生しなさい、寫生を。寫生しなけば駄目です、永く永く氣長くおやりなさい。』と云つて、例の白い眼玉をちろりと★いた、――拙者は此の時始めて君の性格の粗反したる表裏兩面を見たそして妙な人だと思つた。 (西村眞次)
 一言にしていへば、先生は威嚴のある御方であつた、之れが居常、温顏を以て吾々に接せらるゝ内に、一種人をして自ら心服せしめる躰の威嚴を備へて居られた、研究所に先生の臨まるゝは、一同に於て、皆一番に畏れて居る所であつた、先生が洋畫普及に熱心であられた事は、今更口にする迄もない事であるが、叉事務的の才を備へられた事は、非常なもので、恐らく現代畫界に再び得離いお方であらう、殊に往年の水彩畫講習所より、轉じて日本水彩畫會研究所を起し、今日に至る間、終始一貫其中心となられて、如何なる細事をも心して、監修せられ、常に慈父の子に於けるが如く、吾々を愛撫指導せられた事は、一同の深く敬慕して措かざる所なり、今や日本水彩畫會は基礎も鞏固に、大いに社會に向つて發展せんとするの秋に當り、突然先生の訃を聞くは、研究所に取りての、打撃は、殆んど想像に餘りあるもので、獨り吾々のみならず、我美術界不朽の恨事といふべき。てあらうと想ふのです。(日本水彫畫會研究所研究生諸君を代表して水野以文謹で白す)
 大下氏に始めて出遇ふたのは、明治三十年秋で有つたと思ふ、飯野の奥の原市場と云ふ村で、小川の邊りの紅葉の樹と樹とを寫生して居られたのが氏で有つた、農家兼宿屋の暗い部屋で、或る雨の日、★で作つた碁石で、碁の眞似をやつた處が、塊碁石が不足して、つまらないので、翌日は川原で白い石黒い石を澤山拾つて來て、碁をやつた事が有る、或る晩色々の話しの末海軍の練習軍艦に便乘して、遠く南洋に行つて見たら、愉快だろうなど話した、其後間もなく氏は、是れを實行して濠洲南洋を廻つて來られて、大に羨しかつた。 (中川八郎)
 卅四五年頃と覺へ候、小生の組織罷在り候展覽會に、多數の出品を給り候處、何れも見事なる水彩畫にして、逸品あるに係らず、陳列場所の如きは少しの注文もなく(會の常として)、多くの人は、陳列場の如き所を、強請され困難するものなるに、先生は自ら畫き、自ら樂しみ、更に利欲を顧みず、美術家として洵に人格高きに敬服仕候、こは自分一人に非ず、當時の會員も、皆敬服したる事實に御座候、之れより稍や順境に入り、先生の理想も實現され候時代に移り、茲に世を早やめられ候事、眞に遺憾の極にて御座候。 (岡倉秋水)
 大下君には、數年前一度お尋ね下すつて、お目に掛つたきり、お作もあまり澤山拜見しません、且門外漢ゆゑ、何とも申されませんが、日本の水彩畫の爲め、貢献された功の大なるは、永く傳はる事と存じます、お目に掛って、如何とも氣の置けない一見舊知の如き感あるは、君の圓滿無凝なる人格の、然らしむる處、獨り藝術界と云はず此のマジメな、僞はらざる、正直な君子人を喪ったのを、深く悲みます。 (内田魯庵)
 大下君に就きて小生は、格別に何にも承知致さず唯今日の水彩霞の發展を見るに至りしは、同君の力に因る處、多くして、常に水彩畫と云へば、直ちに同君を聯想致候。 (松岡壽)
 さなきだに秋は寂寞たるものを。ましてや。巨人を失ひたる斯界は爲に一層の秋を感ぜざるを得ず。大下君、天稟の費を以て荒涼たる水彩畫の壞壘に據り堅忍不撓。『みづゑ』の旗幟を飜し五寸の毛管よく斯界の革新に努力せられたる、今にして之を思へば轉た恨然たらざるを得ず、假令有形の「みづゑ」は本號を以て廢刊せらるゝも、無形の「みづゑ」は氏に感奮與起し。永久天壌の間に存じ。是より共後幾多の大下君を再生せしむべきを信ず。 (荻生田文太郎)
 僕が大下君を知るに至つたのは、六七年前何虔かの會で、友人に紹介されたときである、其時僕は大下君が、温厚な然も中々覇氣のある人だと思つた、さうして君が色々な辛酸を甞めた人であるとは、其時に直ぐ了解する左が出來た、君の作品に就いては、門外漢たる僕の評する限りではない、然し君が「みづゑ」を普及させるとに、非常に盡力せられたとは、僕の深く敬服して居る所で、西洋畫の普及では、恐らく君が、日本で一番功勞が多いと思ふ、叉畫家の中珍でらしく常識に富んだ人であると思ふ「みづゑ」の發行には、僕も動機を與へた一人である、夫れが今廢刊になるのは如何にも殘念である、君の仕事は悉く獨力であつた、大下君以上の高家は出るかも知れぬ、大下君ほど熱心な畫家は出まいと思ふ、實に惜しい人である。(斯波貞吉)
 

(故大下氏が旅より送られし其一)

 拜復大下君とは古くから知りあつて居りましたが、親しい御交際は致しませんでした、二三年來折々御訪問をうけて、明年は水彩畫展覽會をやるから、出品しろといふ事で、これから自然親しい御交際もするやうになるのだらうと、思つてゐると、今度の樣な事になつたので、私が温泉場の畫や寫眞を集めたいといふので、大下君は、其旅行先で温泉場からは、必ず畫はがきを送つて下さいました、それが五六枚はあつたと思つて居ります、それが大下君の永久の紀念になりました。(中澤弘光)
 余は故大下藤次郎氏を、謹直な、聰明な、常識に富みたる紳士として、見てゐたものである。余が氏について、最も推服してゐたことは、氏がいつ會つても、常に靜かな、落ちついた、餘裕ある態度をもつてゐたことである。氏の如き多忙の人にして始終かゝる態度を持ち通すことは、なかなか普通の人には出來ないことである。氏は實に修養の人であつた。氏が、その體力には、過ぐるとは思はるゝほどの繁劇な仕事に、割合に平氣で當づてゐたのも、全く此の爲めであつたらうと思はるゝ。しかも、その爲めに、知らず知らず健康を害し、働き盛りともいふべき年を以て、世を去られたことは、實に惜しむべく叉悼はしい次第である。(羽仁吉一)
 小生の故人に面語したるは後にも先きにも唯一回だけに候へば、茲に提供すべき材料なきを遺憾とする者に御座候、恐らくは故人が歸朝後未だ間もなき頃ならんかと存じ候、松浦伯の庭園に於いて池に臨める水樹に相互に名告り合ひたる後、一時間ばかりも繪畫、其他何くれとなく極めて打寛きたる談話を交換致し候、話題は大半記憶を逸し候へども「余は今紳士と語つて居る」といふ其時受けたる印象は、今なほ小生の腦裡に有之候。 (文學士畔柳都太郎)
 大下氏には一度、博文館の宴會にて御目にかゝりし事あるのみにて、何も御答へ申す印象感想とてもこれなく候へ共、小生は氏が藝術家として、最つまらなき役廻りを引き受け、素人に接觸して、一般の趣味の普及に、貢献せられたる功勞を、常に偉なりと存じ居り候。 (鏑木清方)
 スーツとして、閑雅な、而して強みのある竹の如き君は、病の雪に端なく折れた」其門よりは、幾多の俊英を出じ、而して其水彩畫の普及に盡碎せらるゝや、其穏かなる畫風のように、怒濤狂瀾の勢を驅す、宛ながら春潮の滿ちゆく如く、わたらぬ濱もなしの有樣で、叉其餘力は、印刷物の上にも及びしことは「みづゑ」などに見ゆる通り。毎に工人を督勵誘掖して、木石版の版調に、いかにもして原畫のにほひを增さしめんと、苦心したり、三色版の不備の點を認めては、技巧を進めて、之を補はしめんと要望もされた、君の長逝は、我印刷界の爲にも、實に痛惜に堪へぬところである。 (田中半七)
 常識に富んだ圓滿な人製作家としてよりは敎育家として適當な人、(新海竹太郎)
 或る頼み事で、島村抱月君の紹介状をもつて、宅へ見えたのが大下君へ、初めての對面でした、其の後宴會の歸に、一行と電車へ乗つたぐらゐで、君とは親交はありませんでした、島村君に後で會つた時、「君には迷惑と思つたが、大下君といふ人物が、面白いから紹介をしたので」と言つて居られた島村君の此の月、旦によつて、大下君のえらい人である事を知りました。 (伊原敏郎)
 大下君は温厚なる紳士なり、其の技術は、穏健なり、君が洋畫趣昧を普及せしめんが爲めに、南船北馬倒れて後に止むの概ありし事と、事を處する嚴密、周到能く後進を指導せられたる事は到底尋常人の、企及せざる所にして、余等の深く敬服して止まざりし所なり。」 (鹿子木孟郎)
 明治四十四年十月十一日の朝ほど、僕の生涯中で驚いた事はない、汀鴎君逝去の記事を新聞紙上で見たのだ。僅か廿日前――九月廿二日坪内博士邸の交藝協會試演會で、君の健康な姿を見て居たので、僕は實に該記事を幾度か見直したのだ。後進の誘掖に忠實であつた君を、遽に喪つたのは、斯界の爲に痛惜に堪へない。 (石橋思案)
 大下君に、始めて逢ふたのは、五六年前の事であつた、君は藝術に就ては、進歩主義の人で僕が如き素人の美術に關する感想でも、之を聞き、宏度を以て居られた、君は我水彩畫界のパイヲニヤーであつた。君の事業は實に創業的で、而かも斯界に貢献せられたることは、多大のものであると思ふ、君が早く斯界を去られたのは、遺憾である、併し君の始められたる事業は、年と共に、君の功勞を永續するであろう。 (片山潜)
 鳴呼大下君の永眠を悼む、余は故大下君と交はりは淺けれども二三回會合して亦雜話をしたことがある、今回最後の文部省展覽會入選の「やなぎ」を見て、これは傑作であると云へば、餘り賞讃に過ぎると思ふが、併し此一葉の畫を以て、總てを批評するは甚だ酷である、慥に日本水彩畫としての特色を、一般に紹介したることは事實であろう、且水彩畫描寫法などの編纂もありて、後進を誘導せしことは多きことであろうと思ふ、若し君をして永く存在せしめたらば、其特色の點に於て益々進歩せらるゝことゝ確信するところである、聊か生前に君を知るの故を以て哀痛を表し、合せて批評を試みた次第である。(大野雲外)
 大下君とは、十餘年前より面識はあつたが、その間途に深く交際する機を持たなかつたのは、遺憾である、去年故原田直次郎君の十年祭に當り、同君の遺作展覽會を催す時などは、非常に盡力せられたことを、記憶して居る、その熱誠には大に感服して居る、(長原孝太郎)
 

(故大下氏が旅より送られし其二)

 大下氏の旅先から戴いた繪葉書には、季節とは交渉なしに、大抵湖畔からのが多いのであつた。その度に、一度は必ず見舞ふべき景勝であることが、熱心に記してありました。私はそんなことから、大下氏は謙遜な態度で、平和な物優しい、そうして上品な風景を享け樂むことの出來る性格の方であることを知り私なども、能く一致する氣分のあることも知つて居ました。今少し私から近寄つて行つて、胸襟を開いたなら、自然を味ふ心が、更に多く相似て居ることに氣付いたかも知れぬ。併し、一方から云ふと、大下氏は何時も、自己を忘れることのない人、心の全部を醉はせて、平氣で居られない人であつたらしい。其點が、藝術家としての品質を、少し創られた代りに、趣味の敎育家として、あの事業を残された譯ではあるまいかと思ひます。英國式の紳士、と云ふのは、生前の大下氏を見る毎に、何時も胸に來る最初の感想でありました。 (西村渚山)
 君の名は久敷以前から聞いて居たが、相識るに至つたのは予の歸朝の曉で、僅かに三年ばかり前のことであろ、始めて面會した時、已に君の態度の紳士的で、言語動作が温厚で、誨人而不倦といふ風が見えて居た、君は人から依頼した事を一旦引受けたらば、必らず果たす、君の勉強家であることは、其事業を見てもよく知れる、例令ば研究所を起こして、子弟を敎育し、雜誌を發行して、自ら其編輯の任にあたり、數多の雜誌に投書し或は其口繪を描き、一年二期の休暇には、各地に講習會を設けて、畫道の普及を圖り、又畫會の重任に當りて、處理する處常に機宜に適ひ、人の畏敬する處である、こういふ多忙な中で、平然として畫道の研究を怠たらぬので、殆んど寧日とてないのである、又其家庭は圓滿で、人の羨む處である、されば朋友は君を信頼し、子弟は君に悦服して、其業を勵んで居るこういふアッコンプリシドゼントルマンは他に多く類を需めることが出來ぬと思ふ、天君に年を假さず、俄に卒去せられたのは、實に惜みても餘りある夫第である、此上は唯君の冥福を祈るばかりである。 (岡精一)
 大下氏の名は、小生未だ郷里に居るとき、同氏著水彩畫法(太平洋の浪の挿畫あるもの)を見て始じめて覺え、常に氏の事を知り度いと思つて居ました、其後三宅氏の水畫の噂なども、共に聞く様になつて、其頃から、やうやう水繪畫家と云ふ專門のものがあつて、油繪と同じ樣なものが出來る事を知りました、淺井氏の水彩畫手本の、淡彩物を以て、水彩畫で出來る最上のものと心得て居た田舎者の眼も、御蔭で開らかれたのです、こちらに來てから、太平洋畫會の研究所で、日露戰爭頃に遇つたのが始めてゞ、平常想像して居た氏の風釆が、不思議に適中して、何だか前から知つて居た人の樣な氣がしました、只小生の想像した大下氏は、も少し小柄の人であつた丈けが間違つたのです、畫家の生活が、多く我儘なのに引交へ、氏は常に廣く一般に親切なる行き方をされて居たので、それ丈け畫界の範圍の廣められて居たのであつた、今開かれて居る公設展覽會に、飾られて居る氏の作『柳』と、其處に黒布をかけられた花束は他の血氣滿々として並べる澤山の作品の間にありて、靜かに此畫界を辭し去つた一人の、名殘りとして、云ひしれぬ淋しさを感じました。 (坂本繁二郎)
 大下君には、四松庵に於て、山岳會開會の節、同君幹事として參られ候際、御面會致したる迄にて、何等申上候様の事も無之候へ共、其際、同氏が極めて、温良篤實の君子なる事は深く印象致候まゝ、此義不取敢申上候。勿々拜具。 (志賀重昂)
○小學校時代に、大下君の繪(印刷物)を集めて習つた。
 〇一昨年の春太平洋畫界の展覽會を見に行つた時、大下君と初 めて名乗りあつた。藝術家とは思はれない程、世慣て居る處 に現代的美術家の匂があつた。
○大下君の繪は、脱俗して來た。
○目白坂の上で、大下君に會つた時「チトお寄り下さい」と云はれた。少し過ぎて振り返つて見ると、大下君の影はなかつた。
○それから三日ばかりして大下君は死んだ。 (齋藤與里)
 僕が大下君を知たのは、未だ君が畫を學ばない、學ぶべき萠芽の起つた時であつたらう、此時には戀の大下君を強く印象した時であつた、戀の大下君を印象した時、當時親友にも知人にも知らない畏敬の思を深く刻んだ、其爲ぞもあつたらう、自分には君の音容が著しく慕はしかつた、其戀の主人公の名は忘れたが、自分の眼にも十七八の美しさは忘れない、大下君の爲に共友への接待樣の鮮かさも見えた、君が戀人の習慣性を改めん爲に、有益の文字を讀ましめる其努力は、極めて眞面目な熱誠なものであつた事は、自分にいつも大下君らしいと云ふ畏敬の思びが繰返さるゝのである。 (山中古洞)
 廣漠たる平野の際み、遠く露の裡より流れ來りて流れ去る大河の畔、軟綠の柳に打煙むる影を水に浸して兩岸幾里、滿目の菜花は咲續く桃李の花と相映ずる東京北郊の春、長閑に、穏やかに然かも一味靜寂の趣致。
 こは高潔、温厚、綿密、勤勉なる大下氏に對する、余が一面の感想である。 (磯部忠一)
 私が大下さんに始めて逢つた時は、十年程前の恰度秋に巖谷さんや鵜澤さんの連中に、中澤兄と共に加つて、青梅に寫生行をした時でした、其時は桐で製た薄べつたい、繪畫箱をあの細長い體にぶら下げて、拜島の河原をうろうろとして居られた形は、今だに目に映つて居ります、其后の紅葉祭や、山岳會で御目にかゝる位でしたが、君は謙讓で、親切な、而も我々の仲間に珍らしい規律のある、約束のかたい人でありましたが、十年後の此秋に、永い御別をする事になりました、逝かれる僅か一週間位前に早稻の中學講義の口繪を御頼み致しました、其の御返事は私にとつての絶筆でした、而して其口繪は君の恐らく絶筆ではなかつたかと思ひます。 (岡野榮)
 小生は只一回、御目にかゝり候のみ、それ故感想等は殆ど無之候只氏の作品を見て、常々思ひ候は、氏が色彩の畫家といふよりも、寧ろ情趣の畫家にて、平淡の中に、漂渺の韻致ありしは今の洋畫家の中にて、特に珍とすべき處と考へ候、氏の作品を一堂に集めらるる事も有之候はゞ、再びその餘韻に接したく存居候。 (文學博士姉崎正治)
 故大下藤次郎君に對する私の感想は、畫家などゝ云ふものは約束した事は忘れる。頼まれた事は打遣り放しにすると云ふのが先づ通例であるのに、大下君に限つては全く違ふ、約束は嚴守する、頼んだことは日を期してきつと出來上がる、それが少しも嫌と云ふ顏をせずにやる、之には全く敬服せざるを得ない。
  (石山欽一郎)
 私が田舎に居る時分大下氏の『水彩畫の栞』が發行された、私は此の書によつて水彩畫を畫くべき方法を學んだ處で、仝書の内に何か道具の内に買ふ處の分らないものがあつた、勿論今なら何處の文具店にもある極く安價なものだつたと記憶する、それをハガキで問合せると早速青梅の氏から何處の店にありて價何程といふ様な明細な返事が心切に書いてあつたので大下氏といふ人は實に心切な人だと嬉んだものであつた、氏に面會したのはつひ近年になつて二三度きしかないが私は大下氏は畫を學ぶ少年に如何にも心切な人といふ第一正直で見て居た。
  (森田恒友)
 拙者は去る十七年以來初中等圖畫の敎育者として叉斯道の開拓者を以て自から任じ及ばずながら微力を盡くして居るのであるが何分にも肝腎の技倆が拙劣なので充分素志を貫く事が出來ないを遺憾として居る大下君とはまだ十年足らずの交際であるが去る四十年大阪でみづゑの講習會を開かれた時幾分のお世話をして以來其主義目的が殆ど一致して居るのみならず全君は技能並ひに熱心の度に於て頗る學ぶべきものがあるので大に敬慕すべき人であると思ひ其内お互に親しい仲となつて翌年の奈良の會にも聊かお手傳をなし叉自ら主催の展覽會などにはいつも援助をして貰つたのである仝氏の作品に就ては世間往々之を是非するものがあるが之は大下君其人を知らぬからである仝君の温厚にして着實なる深切にして熱心なる將た叉敎育的の人であると云ふ事を知つたならば其作品が一々其性格を語て居ると云ふ事が見えるのである、何にしても叉と得易からざる人を一朝に失ふたのは實に遺憾の極みである終りに臨み其早世を弔す。
  (松原三五郎)
 小生は山と、山の中の湖水とを愛し候、故大下氏は好んで山と山の中の湖を描かれ候、それ等の繪は小生の永久に忘るゝ能はざるものに候、大下氏の遺されたる事業は博からんも、小生の深く印象に殘るものは此の如くに候、頓首
  (河井醉茗)
 

(雜司ヶ谷の齊塲)

 余嘗て故大下氏と寫生の爲に鎌倉に遊び偶ゝ大佛前を過ぐ路傍の車夫指笑て曰くよくも揃ひしものかなと蓋し氏は飽迄丈高くして余は殊に倭小なればなり是外觀の對照にして皮膚の感に過ざれど性格亦大に反せざる莫きなり氏は沈着にして頭惱緻密なり是叉其名を成せる所以にして衆人の企及し能はざる所と云べし余と氏とは其性格手腕に於ては天地宵壌も啻ならずと雖とも而かも二十年來の情交綿々として一日の如きは一つに氏が徳性に負ふ所にして其間氏の諄化を蒙りたる所少なからず如斯は猫余に止まらずして常に氏の風采に接するものゝ等しく感嘆する所にして君の將來に俟つ所のものは唯に一美術家のみならんや今や秋色山野に滿ち草木錦?を装ふ時氏は、永遠なる希望と妙神の手腕とを抱きて桐の一葉と共に散りぬ固より是天なり命なりと雖ども畫界に一つの明星を失ふ哀惜措く能はざるもの何ぞ後進子弟に限らんやされど氏が社會に貢献せし多大の事蹟は君の名と共に千歳萬古不朽なるべし、涙ながら師友なる故大下氏に對する感想の一節を述ぶ。
 故大下氏は多趣味の人にて俳句も亦入神もの多し彼は新派を好み嘗て?ゝ日本新聞に投じ汀鴎の名にて入選のもの多かりし(余は今其句を忘れたり) (森脇英雄)
  大下君を懐ふ 高知縣師範學校 豊田潔臣
 十年一日の如く其交を渝えざりし親友大下君を失ひたることは私に取りて悲哀の至りであります而して「みづゑ」の讀者が良師友たる君と永へに別るゝ苦痛に對して私が深く同情を表する所以は去る三十八年七月「みづゑ」初號の發刊につき私は君に勸めて其決行を促したる關係があるからであります惟ふに君は技術家たる素質を有すると共に事業家たる才幹を具へ熱心に敏活に事を行はれたるは皆知友の認むる所であります君の性格は理性と感情との調和が善く附いて居つて意志活動もまた程よく伴ふてあつたから社交も立派にやられ仕事も十分出來て且つ常に品格を保たれて居られた其發達したる常識は君をして判斷を誤らしめず其行爲に過失なからしめたものと思ふ君が友情に厚きは私の忘るゝ能はざるものがある曾て私が東京在住の時猿樂町に大火があつた君は目白坂より望んで私の寓所三崎町燒けつゝありと認められ義弟と共に疾走來訪せられた山妻出でゝ迎ふれは流汗瀧の如くであつた當夜私は本所に赴き近所の火災を知らず歸りて之を聞き君の情誼深きに感謝した次第であります爾來遠く隔り毎年一回上京の期を樂として居つた、本年六月の會談は最終となつた君の温容髣髴として眼前に在る心地す。
 拜復小生はさほど深く故人を知らず從てまた何事をも語るべき資格はこれなく候唯其の長身疲?を觀てその作品に對する時は一種いふべからざる同情を感じ申候冷靜なるが如くにしてしかも情味こまやかに粗放なるが如くにしてしかも用意の周到なる今や唯潰品を觀て益ゝ其感を深うするのみに御座候謹言
  十月十六日夜 中川忠順

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