水彩畫の今昔(一)
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
故大下藤次郎
『みづゑ』第八十二
明治44年12月3日
近頃大分水彩畫と云ふ言葉が世間に廣く用ひられる樣になつて、殆ど此頃の敎育を受けた者は水彩畫を知らない者はない、全國を通じて普及されて居る、然し飜つて十年、若しくは二十年前を考へて見ると、巾々斯樣なものではなかつた。私が繪を初めたのは今より十七八年前であるが、其頃には水彩畫を見ることが極稀であつて、第一水彩畫とは如何なるものか、それすら知らなかつた、水彩畫と油繪とを區別するには、これは硝子が張つてあるから水彩畫であると云ふ位の考であつた。それ程、一般に水彩畫と云ふ觀念が幼稚であつたが、今日斯う云ふ風に盛んに成つて來た、その依つて來る所、即ち過去の歴史をお話するのも、敢て無益の業でもあるまいと思ふ。序に、現在及び將來の考も云って置きたい。私が繪を始めたのは前申す通り今より十七八年前であつたので、其後は稍や畫界の事情も判つたが、其前の事は甚だ不充分である。不充分ではあるが一體吾々に云はせると、日本畫も一種の水彩畫と云ふ事が出來ると思ふ。繪畫の始めは繪具を水で溶いて、それを捺すつたのであると云ふから、それをも水彩畫と云ふ事が出來るならば、餘程前からあると云はなければならぬ。然し、今吾々の云つて居る水彩畫はさう云ふのとは違ふ。吾々の云ふ水彩畫の、日本へ來たのは明治になつてからだ。明治以前、司馬江漢と云ふ人が日本繪具で西洋風の圖、或は陰影の入つたものを描いた、これは水彩畫と云ふ事が出來るかも知れぬけれども、今日の水彩畫とは矢張り大分違つて居る。明治の始め、工部省内に美術學校があつて、それに西洋畫と西洋彫刻を置かれ、西洋畫の方は伊太利のホンダネジーと云ふ先生が來て敎へた、これは油繪を敎へたに過ぎないので、水彩畫は別に學校の科目になかつた。その頃の畫家の水彩畫に對する觀念は、これを決して獨立した一つの繪と認めなかつたやうである。唯だ印刷物の下繪にするにも都合が好く、又旅行してスケツチを作つて置くにも極便利であるとか、油繪の大作をするに一寸描いて置いて様子を見るのにも具合が好いと云ふやう鹽梅で、大變輕々しく扱って居た。ひとり日本ばかりでなく、今日水彩畫の一番發達して居る英吉利邊でも水彩畫が今日のやうな勢をなす基礎を造ったのは、凡そ百五十年程前からの事であつて、それまでは矢張り、共價値を認めて居なかつた、日本では、此頃故人となつた淺井先生が、明治二十年頃までに、偶々、水彩畫を描いて居られたらしいが、其頃のものとしては、これと云つて今日に殘つて居るものがない、唯だ日本から彼方へ弗々行つた人が彼方から歸つて來る時に、船の中などで、水彩畫でスケヅチをした位ひのものらしい、無論、其時分に素人で水彩畫を描くと云ふ程の人は殆どなく、唯だ德川慶喜公の描かれたものを二三見たことがある然し一體に今日で云ふ水彩畫とは大分違つて居て、日本畫見たやうな水彩畫であつた。
明治二十二年明治美術會の展覽會が始めて上野の馬見場で開かれた。私はそれを見なかつたが、其時の目録を見うと、水彩畫を描いた人の名前がある。五性田芳柳、神中絲子、渡邊鍬太郎、村井羆之助、渡邊文三郎、外國人ではアイ・コンドルと云ふ人達で極く僅かの出品である。參考品としての水彩畫も十二三枚出て居る。其中には今日世界で風景畫家の一流と知られて居るアルフレツドイースト先生が、其前日本に來遊して描かれた水彩畫が、三四枚ある。然し、前に云つた通り、其頃は、普通の人は之を油繪と區別する事が出來ぬ。何でも硝子に入つて居るのが水彩畫である位ひに見て居た。それから、明治美術會に年々展覽會を開く事に成つて、水彩畫の出品も稍ゝ多きを加へ、今擧げた外に、尾瀨田良恭、會山幸彦、中村不折、石田益敏、渡部審也、倉田弟次郎、石川欽一郎、都鳥英喜、三宅克己、松井昇、根岸錬吉などと云ふ作家が增して來た、叉外國人ではイースト先生の外にジョン・バーレーと云ふ人が來て、矢張り日本の景色を大分描いて上野で公衆に見せた事がある。其時分から稍ゝ水彩畫と云ふものに一般の畫家が注意して來たが併し世人は餘り注意しなかつた明治二十六年頃に、英國のアルフレツド・バルソンスと云ふ人が日本へ來て、三月から十月まで居つた、其間に諸方の景色を水彩畫で描いた、其結果を上野の美術學校で見せて呉れた。其人の繪は今でこそ色々の批難があるけれども、其作品は皆自然が描いてあつた。詰まり、今まで繪を見る氣がしたのが、其人のを見ると自然を見る氣がした、其頃までの寫生と云ふものは、色が今日の色とは違つて居た。其頃の畫家は、想像半分で大概の繪を描いて居つた。所がバルソンスの繪を見ると、自分の想像と云、譜ものを餘り加へずに、自然の感じを充分に現して居る。其數は實に百枚からもあつた、三月より十月ま.ての短時日の間に、しかも忠實なる寫生が百枚以上も出來たのを驚くと同時に、水彩畫でも、これだけ立派な仕事が出來るかと云ふ考を一般の畫家に持たせた。其結果として水彩畫家として生涯を送らうなどと云ふ考を持つて來たのが三宅克己君等で、私も勿論其刺戟を受けた一人であつた。其時代から弗々畫學生間に、水彩繪具を弄ぶ人が出て來て、其頃一番振つて居たのは大野幸彦(舊姓會山)氏の門下で今の三宅克己、石田益敏、和田英作、中澤弘光、矢崎千代治と云ふやうな人達が水彩畫の寫生を盛んにやつて居られた。其内でも、和田君の如きは、水彩畫で油繪と同じ感じを出したいと云ふやうな意味で、江の島で非常に劇しい色を使つて自然の寫生をして見た事がある。三宅君も其頃から、寫生と云へば全然水彩畫許りで行ると云ふ風であつた。故淺井先生の社中で專ら水彩畫を描いたのが渡部審也、木村光太郎、莊野宗之助、等の人々であつた。不同舎では、小山正太郎先生が生徒に水彩畫で寫生を行らせた。それで二十八年の明治美術會の展覽會には、水彩畫の數も大層殖えて前に擧げた作家の外に新しく出品されたのが渡邊審也、中澤弘光、阿久保正名、淺井忠、平木政次、森川松之助田淵保と云ふやうな人達であつた。