偉大なる繪とは何 三

矢代幸雄抄譯
『みづゑ』第八十二 P.3-7
明治44年12月3日

 三、眞實なること、
  大美術の特徴の第三は、畫が出來る丈多くの「眞」を含んで出來る丈完全なる調和を保つて居ることである(自らは一、二、三の順序で漸時、重大な條件に及んで居ると御承知ありたい)|畫として自然界の眞を全體傳へる事が出來るのなら、共通りしなければならない、然し是は出來ない相談である。そこで畫中のものとして表顯出來るものと、出來ないから無いものとして目をつぶつて通るか、又は、或程度まで其僞を畫かねばならぬ事實とを區別撰擇しなければならなくなる、斯樣なわけ故月並な畫家に、價値もなき、眞をば雜然と捕へるに過ぎないが大畫家の撰ぶ所は、捨て置く可らざる、重大な眞を第一にして其次に此と矛盾することなき、比較的策二流の眞を寫し、斯くして全體に於て眞の最大量を畫中の物とし且其各を渾然融和せしむるのである、例を示すならば、レンブラシトば寫す物體の受くる最高の光の強さを失はずして蔭の暗い蔀分と對照せしむることを常に努めて居たのである。彼は此餘り價値なき眞を得孟が爲め、大概其の畫の光線と、色彩の六分の五位を犠牲にしなければならなかつたのみでなく、形や色の抹微に本づく表情をも無視するに到つてしまつた、然し彼ぼ其唯一の眞丈に獲る事が出來、其を土臺とする強烈なる繪畫的な傳神の力は實に御手の物であつて、驚く可き熟練と精緻とを以て仕上げて居る、ベロニーズは、當に其反對とも云ふ可く、好んで顯はした所は、畫中の物と物との關係、物と空との關係、物と地との關係であった、人物が精い空氣や、大理石の壁から如何して浮き出すか|紅なら紅の衣を着けると如何して紅ならぬ色のパヅクから素適にハツキリと||見出つて顯はるゝが、無量の日光が其人物を圍みて輝く状、||數へきれぬ細き陰影が其を覆ふ事||極度の光線の當る所に限あると同樣、暗な點も其極度の所は非常に少く且趣小部分に限られて居る事|ベルニーズは是等の眞をば、ヒ首の柄に落ちた日光の輝き、寳石の燦として光る等の光度丈を明確に表示するよりも、更に重大なる價値多き事と信じて居るのである、其上彼は此等の眞は互に調利的である即一層大なる眞の大系統中に組込まるゝ事が出來ると感じて居たのである、そこで彼は不斷の注意と、測る可らざる精緻を以て是等の輕重を問ひて平衡を分厘の間に得しめる、共丹靑の微を趣めて畫く所は、單に個々の物象自身の眞僞如何のみではなくして、畫面上に於る物象相互の關係を表はさんとして居る、眞を得んが爲に無盡の精力の走らんとするを支へ、火の如き努力の飛ばんとするのを止めて居る、眞の前には五色陸離の愉快をも捨て闇冥晦澁の不愉快をも凌ぎ、發溂たる才氣の發揚を引締め、一の誤謬、一の忘却、一の不注意も閑過するを許さず、全努力、全衝動、全想像力か擧げて皆自然てふ嚴として犯す可らざる眞理の意志に歸し、汚す可らざる實在に服從をして居るのである。 自分は此例を色彩や、明暗に關して擧げたのであるが、繪畫界全般に於て大小畫家の區別は皆之と同樣なものである即、畫家の優劣は、共齎す所の「眞」の量如何に在るのである。
 (A)此原則から先第一、偉大なる畫は普通明瞭な畫である事が推論せられる、何とならば、概して云ふと不明瞭に仕上げた畫は實は未だ全く出來たのではないのだ、尤も全その物體の中には神秘的な事實あり、不明瞭の事實があつて、其等は杢體の調和を得る爲各々所適の位置を占めて居る、記者も此後斯る點を研究す可き所に進んだ時に於てよき畫は皆或程度まで不明瞭でなければならぬと説明しやうと思ふて居る。然し吾人は此一見矛盾する如き二説を考へ樣に由つて調和、兩立さす事が出來ると信ずる即、智識が進んで最高に達すると常に前途に尚未開、未知の原野が擴がつて居るではないか。||知は不知の深き自覺を其中に含むのである、然し同時に高尚なる知識と下等な無用な知識との區別は主として前者の清透明瞭なる事、知と不知とを嚴正に自覺する事に存すると云ふて毫も差支ない、美術に於ても其通りである最上の繪畫は中に不分明、不明瞭を驚く可き程に認識して表現して居る、然しよき繪と惡きのとの區別は何處までも畫の明瞭に存すると言はねばならぬ、或物或事を明確に精微に主張し發表して居らねばならぬ、是に反して惡き畫は何等明示する所なく一向に不得要領なものに過ぎない、故に大美術品の特徴として第一に認む可きは畫き出してあるものと、畫いてないものとを明確に自覺せしむる事である、畫者が「余は是を知る」「余は彼を知らず」云ふ信念を大膽に畫中に發表して居ることである、而して一般的に云ひて輕卒な粗略な不明瞭不確實は下級の美術の記號と見る可く、其反對なる、落付いて居る明瞭なる、主張的なるは高等なるものゝ特質と云はねばならぬ。
 (B)此原則から第二の推論として次の事が主張せられる大畫家は常に其畫中の眞の總量、其の調和に注意して其一二の部分には意を餘り勞せないから其作品中には、畫家の眞を捕捉する力が現はれて居る、丁度大思索家が其題日に對し、大詩聖が其得たる概念に對する如く、細部小なる眞を見逃し(是等とて其自身に於ては相當の價値あるなれども他とは比較的重大ならざるなり)直ちに表はさんとする物に迫りて、其起源と終局を示し表面淺薄を見るより寧ろ内部の深き意味と、調和とを傳へる、||一言して云へば、細少部分に捕はれずして大體に目を注ぐ習慣がある、同時に又物質的に大きな仕事、即大作をなさんとする希望も件い、其他技術上所謂幅統一、大膽、等と云ふて居る諸性貰をも含んで居る是等の諸性質は「眞」に關して居て、「眞」の幅、「眞」の重み、「眞」の大膽ならば圭張ならば實に偉らき性質ではあるが、同時に之に相應ずる誤謬欠點がある事を忘れてにならない、||内容なき幅、價値なき重み、偽を目的とする統一、詐りを奥面なく出す大謄、是等を通常、無心が、誤りて前者と混同する事は注意す可きである、
  更に一歩進めて考へるに、畫帛の大なるに就ては特に氣をつける必要がある、何となれば大畫家は廣き畫布を埋め得る發明のオあり、又時に炎々止むる止まれず翰墨を飛動する意氣あるにより其一の特質として大なる畫面を欲するに相違はないけれど又一方に、畫帛が大になれば隨て、可なりの距離をおいて畫を見なければならなくなり、かくて精い部分や面姿の幽かな表情の線等が解らぬ樣になるは免れない、だから畫家の中でも好んで精緻を尊び、人の容貌を畫く人に概ね小規模な畫を撰ぶが普通である、表情を顯す點に於て世界の寳とも云ふ可き傑作の中には、アンゼリコの小さい畫等數ふ可きぞ、其中の人物は大概六、七吋が限りである、ラフアイル。レオナルドの最上の作は實物の人間より大きいのは少い、ターナーの傑作は長さ十八吋に幅十二吋位なものである。
 (C)繪の偉大なることは、其中に顯はれたる「眞」の總量に比例なる、此眞の分量は精緻な畫き方に從ひて增すのが普通である||此二箇の理由で次の結論が出て來る、即偉大なる繪は綜を出來得る限り精緻で細密でなくてはならない、此法則に如何しても否定する事が出來ない、粗雜なるは、其繪の下等なる證據である只此に注意す可きは、單に精粗と云ふことも、繪と限との距離を中に入れて考へなくてはならない、傍で見ると實に粗雜な、タツチを置いても適當に離れて見れば、ゾンザイ處か、丁寧に細く塗り上げたのよりも數等意味あり價値ある事が、大家の作中には伸々ある、此一見粗きタッチは、離れて見た時の結果を豫想し間髪を容れない緻密な感覺で仕上げられて居る事、丁度弓の達人が矢を射る時と同じである、觀者は只筋骨の稜々たるを見る計りであるが、實は弓人の全身に籠りて、指端にも、眉間にも不動の中に距離如何箭矢の性質如何を微かに、然も正しく測つて居るのである、此の意味に於ける精緻は「眞」の何物なるやを辨へる人には直きに認める事が出來る、チントレツトや、ベルニーズの一筆は、何氣なく一寸引いたものであつて、月並な眼の無い觀者には、顏料をドップリふくませて亂暴に引張つたとしか見えないけれども(加之、畫家でもデモな連中は、此の通り模寫をして居る)實は畫伯が筆と指に由つて申分なく加減せられて精緻の程度に達して居る、其顏料の一粒を其所から取除いても、損害は計る事出來ない、蠅の頭程も無い位の金色の繪具の微量が光線の平均上重大な役目をして居て長さ五十尺の大繪畫の生命を支配して居ることがある、畫の規則中例外のないのに無いけれども此法則計りは一の除外例を許さない、總て偉大なる畫は精緻なものである、粗雜は下等な畫の證據である、否一歩進めてこう云ふ事が出來る、或程度まで、所謂大膽なる畫は、下等な畫である、何故と云ふと、所謂「大膽」、「思ひ切つた」と云ふ言葉は、大家の勇氣、迅速||知識を基礎とし敬畏と愛求とに組合せて一體になる勇氣迅速|を表す可き適當な字ではない、清い婦人の勇氣と、汚れたものの破廉恥とに相違ある如く、眞正なる大膽とに僞の大膽に徑庭があるのである。

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