畏友大下氏

藤村知子多
『みづゑ』第八十二 P.20
明治44年12月3日

畏友大下氏藤村知子多
 予、遇、酒匂なる別邸より歸り、共の夜、意外なる悲報に接せり、舊友大下氏の訃、即ち是れなリ。聊予か知れる所を記して以て、哀悼の意を表せんとす。
 予、大下氏と、畫友として、相知りてより、?に十七八星霜。明治二十六年頃なりけん、予は始めて畫に志し、當時、中丸塾と云ふに入塾せり。大下氏、先輩として此の塾に在り。而して予の入塾せし當時は、氏の指導を受けたること多々なりき。
 氏と相知り、久しからずして、氏の尊父逝去せらる、即ち氏は家業の傍ら繪畫を研究せられ居たり。後一二年にして常時眞砂町にありし家の家業を處理し、本郷追分町に新築せられ、?に引移られしも、又久しからずして、家事上の都合により、同邸は予が引受くるに至り、氏に同番地なる宿屋に下宿せらる。
 此の時、始めて氏は全く畫書生として、專心研究に其の身を委ねらる、氏と共に予が、郊外寫生など試みたるも多くは此の時なりき。其の後現今の駒井町に新居をトせられ、三十七年、予が佛國より歸朝して、氏を靑梅の寓居に訪つれし時は、氏に仝地の有志と共に水彩畫の研究、並びに其の普及に盡瘁せられ居たり。後ち更に春鳥會を起して、みつゑを發行し、廣く水彩畫なるものを社會に紹介し、進むで又日本水彩畫會を設けて、大に子弟養成に勉め、已に共の門下に數多の秀オを出せり。氏は實に眞面目熱心なる。水彩畫研究並ぴに其の普及の急先鋒をなしたる、我が洋畫界のオーソリチーとして記すべきもの、今や地方の中學生、小學生等に至るまで、普ねく水彩畫の何たるかを解するに至りしは、氏の努力大に與て力ある所たり。
 氏性行謹肅、温厚篤實、誠に畏敬すべきの人。氏今や壯年、將に尚ほ爲すあらんとするの時、俄然逝去せらる。實に悼ましくも亦惜むべし。今や秋色紅を添へて、氏の健筆を待つの時、君逝いて歸らず。鳴呼、我が畏友、汀鶯大下氏。
  維時明治四十四年十月中旬

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