横浜支部展覽會を見て
横濱の一市民
『みづゑ』第八十二 P.24
明治44年12月3日
十一月十二日、秋晴れのすがすがしい朝と、同日の夕方、落陽まぼしく、野毛山の左沒する頃と、兩度僕は、濵港館へ見に行つた。
僕ほ横濱土着の人間だが、支部の方々とは知己づきが少い、田中君、高畠君、其丈である、今一人會場で會員らしい婦人の方に挨拶せられて吃驚してしまつたが、何にしろ知つてる人は以上二人か三人だ、謂はゞ知らない人達の畫を見に行つたのだ 筆者は知らないでも、畫題は知らないでも、畫は其丈で楡快なものに相違ない、然し親しい人が畫いたのは尚更面白く思ふのは無埋ではなかろう、僕は此展覽會に入った時、個人としては知らぬが、同一の横濱の佳人として何だが懷しさが湧いて、皆面白く拜見した、僕は故郷としての横濱を絶愛するものだ、 二年程前に、横濱に熏風畫會とか何とか云ふ妙な展覽會を見た。所が其作品が餘り不眞面目なのと、其趣意書の餘り生意氣なので、僕は口惜しくなり、其所にあつた、批評紙に散々惡口を書いて來た事がある。僕は横濱が汚れて居る事も知つて居る實利の巷である事も知つて居る、塵にまみれて居る事も知つて居る、だからと云つて、此横濱を嬢ふ横濱人の氣は私には解らない。
私は此汚れた、きたない、うるさい、横濱が大好きだ、きたないから好きなのではない、橫濵は僕の故郷なのだ、横濵||と云ふと僕は何だか懷しくつてたまらない、横濱||と云つてすら僕は何となく温さを感じる、僕の愛は我故郷なる横濱に向いて居るからだ。
横濱には火の車が走せ、金貨が瀾れて屠る、烟突から吐き出す黑い煙や、づーと走る自働車が立てる白塵に、綠の樹さへ見えない、是等に僕とて好ではない、?を引いて戰場原の夕闇を賞したこともある、武藏野の末に薄を枕した事もある、不器用な筆で、甲州を畫いた事もある、一高時代で「散歩の矢代」と云へば知てる人は知つて居るだらう、此赤裸々な自然を好む僕ではあるが、故郷に對する愛を今は別にしても、横濱の紅塵萬丈を董風會連程けなし度くない、此俗惡汚穢なる横濱に、山の小島氏を生じ星の井上氏を生し蝶の鷹野氏を生じ、劇の山崎氏を生じ、今また、此熱心にしで眞摯なる畫家蓮を生じたのではないか、僕は横濱の芥に感謝をする者である、山河秀麗の地のみに大詩人、大畫家が生ずると云ふのは皮相の見に過ぎない、漱石の云ふ通り、「世が住みにくゝなつた時詩の國と畫の里が生れろのだ、現在に慊らない印度には未來を望む佛教が生したではないか、形式に捕はれた文明社會に於て自然に歸れの聲は發せられたではないか、ラスキンは、自分の大好きなターナーの畫でさヘァルプス山が眺めちれる窓と交換し度いと云ふたではないか、横濱の塵は横濱の藝術の母である、横濱の烟と火とに驚いて之を罵る奴は、顏の汚れて居るに魂消えて、其口に出る敎訓や其心より出る薰化の如何に高く如何に力強きかを知らない阿呆だ。
加ふるに横濱は横濱の人々にとりては故郷だ、畫筆を持つ程の情のある人で故郷に對して懷しさと温かさを感ぜぬ人はよもあるまい、此懷しいと云ふ愛の心、即感情こそ、藝術の生命では無いか、僕の考へは若いかも知れないが、世の中の事はすべて此愛及其裏の憎とに支配されてると信じて居る、理由なうものは其後から此情の説明をして、自己の滿足をする方法に過ぎない、山岳會から異論があるかも知れないが、彼のラスキン||彼が自然をあの樣に慕つたのは、彼の熱烈なる感情の爲めだ若い時バイロンを耽讀した、感情||人知れぬ思ひを失ふて、狂せんとした、激烈なる感情が方向を變じたに過ぎない。近くは小島烏水先生、||僕は永年先生の作を疑問を抱きながら讀んで來た、が此十月の日本アルプス第二巻を讀んで其疑問は解決された樣に思ふ、此事は僕は別に書き度いと思ふから今は止めるがバイロンの所謂「余は人を愛する事少きに非ず自然を愛すること多きなり」
I love not man the less,but nnature more.
と歌いし「愛」こそ、萬づの根原と信ずるのである、ラスキンも烏水先生も、バイロンの盲愛を責めた、理性の足らぬを責めた、盲愛は成程駄目である、然し僕は理性と感情と拭比較的なものと想ふから、バイロンの理性の足らぬを責めるよりも、人並の理件にはおさへる事の出來ぬ程強烈な、感情を憐みっゝ驚嘆する事を止めるわけには行かない、靑年の作の何となく心に響けるのも大家連の作の乾燥して居るのも一方には、溢るゝ胸の血があるのと他方には、其血が乾いたか凍つたかして固まつて居るからだ、感情其物の表現が即ち藝術の生命だ。
戸張先生は曾て、「畫は主觀を通じたる客觀だ」と云はれた、然し僕は寧ろ「客觀を通じたる主觀」と云ひ度い、目的とする所は畫者の主觀だ、田中君とも會場で談つたが主觀なる語は餘程調法で今の洋畫界には餘程此語の弊害が有る樣に思ふが、其弊は矯めなければならないけれども其主張は何處までも主張として云はざるを得ぬ、主觀即純寡る感情が畫の生命をなし、某礎をなすのだ。
感情は期くの如く大切だ、愛の赴く所は餘程大切にしなければならない、特に故郷に對する愛は愛情中隨分強いものだ、橫濵支部の諸君も横濵をば絶愛せられて居る事だらふ、僕は其感情が溢れて迸つて成した温い横濵の畫が見度くなつたのだ。
勿論故郷の愛の外に愛はいくらもある、横濵の人で甲州が好きだから甲州を畫くも賛成である、又僕とて勿論國民文學や故郷文學を説きやしない、只横濵を畫くには橫濵を最も愛する人が適すと云ふ立脚地から横濵支部の展覽會に、愛横濵の情か結晶した樣な畫が見度かつたのだ、横濵の畫も大部あつた、然し何れも僕には他に良い所もないし、且近傍で便利だからとて畫いたとしか思えなかつた、風景畫家が雨で外出が出來ないからとて仕方なしに畫いた静物畫は何だかいやだ、靜物が好きで畫がゝれては一輪の花でも一塊の唐瓜でも面白味と意味がある、横濵の人だから横濱を畫けと云ふのでは勿論ない、又嫌なのに無理に芥溜の畫を書いズくれとも云はない、只横濵に對して有せられる温い情があるならば其を表はtて見せて下さいと云ふに過ぎない。
僕は本當に「濱つ子」だ、荒川市長が來る時皆んなは同氏の能吏な事を喋々したが、僕は「橫濱の事を委ねるには横濱生れの人でなくては駄目だ、英語が出來ても交際が巧みでも横濱を愛する情が無くては駄目だ僕が大きくなつたら橫濱市長に毎つてやる、そして我愛する橫濱市に盡すんだ、萬能達せずかも知れぬが一心は足りて居る」と熱を吹いた事がある、僕臓市長にはなれそうもない、只橫濱を愛する市民としての情は常に燃へて居る遂に展覽會にも不平が出たわけである。
田中君の畫、遠藤君の畫、其他一つやさしい靜物畫、皆んな面白かつた、何れ皆樣にも御目にかゝつて御話を承り度いし、又美しい畫も見せて戴き度い、今僕ぼ本郷の片隅みに潜むで書帙裏の人となつて居ろ、休暇に歸つた時、御親づきにもして頂きませう、私の名前にユキオと云ふ餘り利巧でもない、大して馬鹿でもない、てな奴です、永々と書き立てゝ恐縮に堪えませぬ。
終りに望んで兄等(一人婦入の方が御居でなら失敬)の眞摯な態慶を持續して泥の橫濱から蓮を咲かせて下さらん事を祈ります、僕の如きは喜んで泥の中の肥料となりませう。
(十一月十九日)