色彩雜感

石田正俊
『みづゑ』第八十二
明治44年12月3日

 僕はいつもかう思つてゐる、「凡そ人の佳宅には色彩配合圖の 一面位いは是非とも備へてゐなければならぬ」と。
  此は或は極論かも知れぬ、然し人!一家を組織すべき人の頭には、是非共色彩といふ喜を考へてゐて頂き度と思ふ。
 言ひ古るした論かは知らぬが、一家の長たる人、主婦たる人が、此の色彩に趣昧を有してゐたとすれば、實にその一家の幸は大なるもめである、常に新鮮な、人を飽かしめない色彩によつて多大の慰籍を受ける事が出來やう、かくして養はれた其家族は、向上せる精神によつて、清淨多趣味の生活を味はひ得る事が十分出來る事と思ふ。
  着物、一枚、帶一筋にも、十分の注意を拂つて、この抦ならばこの帶が適當だらうだとか、此子の顏の色はかうだから、リボンはこんなのを選んでやる、といふ具合に主婦たる人、一家の長たる人は馬自分の子が可愛いゝならば、十分色彩學を研究してやらなければならない、がそれも兎角怠り勝の人が多く。
  『安物のリボン一つ買ふに何を愚圖々々してるんだ』
 とかの罵聲をもらす、安物だから十分に選擇すべき必要もあるのだ、艷もなく底もない安物に對した時は、此安物で間に合はす丈けの周到なる注意が、尚のこと必要だ、さるをかういつて罵り散らす御本尊こそ憐れむべきものだ、つまりは色彩といふ事には頓着しない人の癖である。
  實を吐けば、僕は小學敎師の經驗を有する者で、その生活中に、切實に色彩學の必要を感じた例がある。ある日の事、一人の女の子が僕の通り掛かるのを見て走り寄つた。
  『先生、これとこれと何方が配合が宜しいですか』
 との質問を受けた、見れば手には、手工用折紙の色紙を五六枚を持つてゐる。
  『何をしますか?』
 と問ふと
  『熨慰斗を拵へます』
  といつた、で、その中から二組を選り出して與へた事があつた||あれは慥か三年生の兒童であつたと思ふ||かゝる兒童の腦にも既に色彩の配合といふ事に留意されてゐる。あれが若し、何も色彩に考への持たない人に問ふたとして、正鵠ならざる解決を與へられたとすれば、その兒童は一生それを恪守するに至るかも知れぬ、さうなると教へた人の罪は實に大なるものではなからうか、若し又あれが家庭にあつて、繁瑣事を厭ふ父にでも相談したとして見ればどうだらう。
  『お父うさん、どちらが配がよろしいでせう?、』
 と持ち出ぜば、
  『そんなもの位、配合も糞もあるものか』
 とか
  『ウンどつちも可い』
  とか
  『お前の思ふ樣にしてごらん』
 とでも答へてごらんなさい、我父は多能多オのものと信じ切つて居る兒章だもの、そのいひなりになるかも知れぬ、然れば折角萌芽し始めた色彩趣味がこの一瞬間に危ふく蹂?されてしまう譯だ。
  もしこの父の第三の答にして實行せられたならば、兒童が作り出して配合を直樣批評訂正する事を捨てゝ置くき、兒童の自信力は遂にこれで可いといふ決斷を下すことゝなる譯である、すればその子は色彩學||そんな深い象影がないのに勿論だが||などは取るに足らないと高を括る事となる場合が澤山あらうと思ふ、否他の例でも・・・色彩ではないが・・・十分に證明する事の出來る場合を屡々發見した事があるから、僕の思考する結果に到達する事に空論ではない。
  又こん事實を知つた、
  それは式日に、兒童が今日を曠と着飾つた中に、色々の立話が教室の壁にもたれながらに始まつた、(僕の奉職校碇女兒許だからそのつもりで)
  『妾この袴にこの着物が嫌だけど、母アさんが着いつて怒るよつて』
  といふ言葉が耳に入つた、で早速と僕はその服装に眼を注いだ成程、海老茶袴、それも赤勝のものに、上は絹八丈らしく見えた、すると又一語
 『紫の袴の方が宜しいわ』
  既にかうして留意し始めた色彩の眼を、家庭にあってその母は破壞を試みてゐる、-何テ不見識の事だらう、慥に甲生の談片は要を得て實際にも近いさるを無理から兒童の努力を壓へた、而も罵聲を以て壓逼を加へたといふに至つては慨然たらざるを得なかつた、これといふも、畢寛、母なる人の眼が餘りに瘠退してゐるからだ、枯死してゐるからだ、子女の父兄母姉たるものゝ勉めて頂きたいのは實に此の點にあるといひたい。
  それから僕は、色彩學を普及せしめたいの婆心から、兒童の集りさうな個所へ、色彩の配合圖を、種々なる形式に描いて張り出しハーストの調和表や、各大家の二色三色六色調和の表をも容易に判る樣に工夫して示した、夫迄も高等科に對しては色彩學の緒を説いて居たのであつたが、後には更に立至つて話したのであつた。
  色彩學の必要は吾輩黄口兒の説く迄もない事であるから抜にするが、色彩の調和、配合の妙なる事は、十分に氣を配つてゐたら、行く所としで遭遇しない事はない、假令へば自然物、天界の現象などは日々に接する事でみる、又これを應用せんとする場合には、二六時中にこれらの變化に注意してゐた人には容易に作成する事が出來るだらう、この雙限、その視界小なりとも、一瞬とも無駄眼を使ってはならぬ、正しき意味の色眼を使へといふにある。
  甞て四五人と外出した時、汽車に飛乘つた事があつた、その縛、室内の疊が何となく新らしい氣妹合を持つてゐた、所でその椽は赤の天鵞絨がついてゐたのに氣がついた、すると一人が 『君疊にこの縁はどう思ひます?』
 を僕に問はれた、つまり論者の意義は失敗ぢやないかといふにあつた、僕は結構だと答へた、蓋しこれは赤と綠の餘色なるを利用したので、赤の縁で疊をどこ迄も新しいものに見せやう、靑く見せやうとしたので、色彩學應用の一例だと思ふ。
  此はこの夏の話で八月の上旬だつた、僕は眼が少々可笑かつたので靑レンズの眼鏡をかけて歩いた、夏の暑さは、ジリジリと凡ての物に迫害を與へて、日光は白いほこつた道や銀鼠色の屋根瓦を射てゐる時だつた、僕は何氣なく眼を上向かせると頂いたパナマ帽の縁が、クリムソンレーキの艷やかな色彩に見えた、更に眼を背らせると、眼鏡の鐵線にバツと仝じ色が閃いたが、それに一瞬間で後にパープルの鮮やかな色だつだ、此はツマリ、綠の(眼鏡の色)餘色の赤が現はれて、帽子の縁が赤く見えて、鐵線が赤く閃ひたのだらう、そして鐵縁の赤が消えてまもなく紫になつたの、その日は快晴だつたので、空のウオルトラマリン色調と混じて見えたのだらうと思つてゐる、之は明かに餘色の關係の明かなるを示す確實な證據とも思はれる。 又かういふ事があつた、あるよく晴れた夏の朝だつた、締め切つた戸の隙から光線が這入つて來た、それが疊の上に映じて何ともいへぬ快感を與へた、元來僕の家は、軒先を竹で圍ふてある、その竹の影が美くしいクロームイエローで現はれた、それが戸の隙間から漏れて疊の上へ扇駅に現はれた、この扇状の骨||竹の影||と骨との間にはバイオレツトのそれにそれは鮮やかな色彩だつた、で早速戸を開いて紫色のある物を干してあるではないかと見たが何もなく、唯空の色が美しく美くしく遠い樣な氣がした、これも矢張餘色の配合の一である。
  こんな例を擧げた日には數へ切れぬ程あるが、これで措くことにする。
  吾々がこの二つの眼の使い具合によつては、かゝる自然の妙味ある色彩の配合を味ふ事が出る、それも色彩學の造詣深ければ、より以上の面白い現象を發見する事が出來るだらうと思ふで僕が常に主張する、色彩の配合圖を備へておくといふのは、?ち?である。
  僕は此自然に同化せられてしまいたいと思ふ、尚偉大なるデリケートの變化を味ひたいと思つてゐる。(完)

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