先生を懐ふ

一末輩生
『みづゑ』第八十二
明治44年12月3日

 私は朝から日暮まで學校と云ふ所で時間を潰さねばならぬ小學校の先生である、現今の敎育上の事柄には餘程間抜けた國家の要求がある所を兎も角もやらねば小學の教員といふものゝ義務がつとまらぬのである。いつもの如く私は擔任の敎室に閉籠つて居て、偶然敎員室に、出て見ると二枚の葉書が机の上に置いてあつた、何れも先生の御令息から御死去の報せであつた、驚いた||二枚と云ふのは宛名の苗字が合つて、名前が違つて居たからであらう、實に吃驚した。
  小學校の教員より、中等程度の學校の教員の方が安樂なことは知つて居るけれど私は東京に居らねば私の腕の退歩する恐れがあるからだ、私の樣なものが東京に居るには小學校の敎員でもせねば外に養つて行く道が付かない、即自個の進歩の爲めに居るのであるが滿更小學校敎員を犠牲としたのではない、大いに自分の職分に對しても腕の落ちないと云ふ所がある。かくつまらぬ貧乏生活の敎員をしても東京に居らねばいけないとの思想を私に與へられたのは先生の賜であるのだ。
  繪をかくことも、見ることも知らなかつた私が少しでも繪を研究すると云ふ方向へ向けさせられたのは先生だ、到底田舎の小學校の先生で一生腐るのは駄目だと考へた私しは或る學校の圖畫科の試験を受ける爲めに國を無斷で飛び出した、何事でも出來かいことはないと云ふ自分の無謀の考へが斯くなさしめたのである、けれど東京に出でどんな先生に便つてよいかがわからぬ、或る友人が聞き傳へたのが大下先生てあつた、東京で人を訪問するには紹介状が必要であるそうであつたが、私は「何」の一言で田舎臭い山出し風で先生のお宅を訪ねた、今から思ふと奥樣であつた、直ちに導かれて先生に逢ふことを許された、ぶしつけに來意を語ると「諾」と云はれて、細かいことまで丁寧に敎へられ御所藏の大切な外國の本まで見て置けと貸し與へられた、私は東京の人達は豪いと思つた、何處の馬の目脚やら牛の骨か分らぬものをかくまでも御親切にとは・・・けれど皆んな東京の人達はそうとは云へないであらふ、只それは先生丈の特質である、それから私は先生及先生の御友達の色々な深い專門の先生のお世話になることゝなり晝夜一ケ月にして試驗を受けて置いて二百里もある田舎へ歸つた、すぐ郡長が所罸すると云ふので姶末書をかけと云ふから書いた、丁度其時合格の瀦知に接した、同時に先生からも成功を嬉んで書き送られた葉書を私は今も大切に保存して居る。之れが自分の出發點であつた。
  たつた此間のことである、私は「みづゑ」に投書する積りで英画の國立美術院の會員の小傳を途つたら先生は十一月號に掲載するとの御返事を戴いてうれしかつた、先生に逢に行かふと思ふ内に原稿中のアベー畫伯が八月に死んだので其訂正せればならぬことゝ御無沙汰の文句をかいて葉書を出した、先生は私しの葉書を讀まれた其翌る夜位に逝去せらたであらふ逢ひ度かたのに、逢へなかったのが悲しくてならぬ。
  先生の畫室を伺へば先生には確かな強い御考へがあつたそれは「みづゑ」の幾號かにも書いてあつたが、日本の國民性にも亦我建築にも適合する繪は「みづゑ」であるとの主張であつたらしい故に先生の繪は現今の我藝術界の潮流に(寧ろ流行かに)そわれなかつたかも知れぬ、然し之れが貴いと思つて居る故に先生の繪には先生の精神が皆表はれて居るとを自分等でも讀み且人に語ることが出來る(先生は實にあんな繪の樣な先生であつた 君は繪をかいて名譽と金とを獲たいか、又は自分が畫き上げたのを眺めて樂しみ度いか。或は只畫くと云ふ努力がして見度いかの三つの質問を發せられた、私は色々の考へが混合して居たから返事を申上げることが出來なかつた、けれど後から考へて我々の立場は第三番目に居なくてはならぬことと悟つた而して私は今に何も出來上つた繪はない、私には一生こんなことが續いても致方のない尊重すべき努力だと觀念して居る、且つ天才も持つて生れなかつたから。
  先生の惠に浴した人は多くあらう、私は先生の恩澤を被りたる者の内の一番少ないものゝ終點の末輩である、然れども小さな草葉の露にも比較ならぬ我將來の身の上には重大なる恩惠であつた如何しても先生を忘れることが出來ないのである。
  齋場の外からも私は泣いた、先生の御柩が雜司ケ谷の土の上に隱るゝときもモー之れが別れだと思ふて涙が流れた、墓地のぐるりに大勢の門下生が涙を流したからと云ふ譯でない。
  秋風の吹き初むる雑司ケ谷の森の元の冷かい土の下にあの繪 の樣な先生が今宵より永眠さるゝと思へば。(十月十二日)

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