秋の旅

白鴎生
『みづゑ』第八十二
明治44年12月3日

秋の旅白鴎生
 雨がしとしとと降つて居る、十月の終の日曜の朝。
 常には日和男と窟慢をして居るSEやTYも只もう屍古垂れて雨の中を鹿島立する程の勇氣は出なかつたのだが、それでも十時過ぎには靑空が見えて『矢つ張り僕等は日和男だ』と鼻を高め乍ら呑氣な三人連れは、牛込停車場へぶらりと押し出した。ご週間も前から、彼處にしやうか此處にしやうかと、地圖を擴げたり人に聞いたり、やつと決めた、候補地が二箇所あった、第一の方に中央線與瀨驛で下車して半里許り離れた吉野驛へ陣取る事、第二は上野原驛で降りて鶴川村を根據地として四方を荒し廻る事、この二つてあつたが結局上野原の方に决めたのであつた。
  十一蒔四十三分の發車、
 武藏野の曠い原に起伏する丘や、はんの木の林や、畑や、農家が一樣に秋の氣を籠めて、額椽のやうになつた車窓に限られて一つ一っ何物かの印象を我々に與へるのである。
 淺川からは平野を離れて山の中に汽車は我々を運んで往く、惡魔の叫ぶやうな恐ろしい音響と、暗黑の、旅客に一種の不安を興へる隧道が、連續して秋晴の山や水の明るさを幾つにも仕切つて我々の前に開展する。
 上野原に着く。停車場の構内から線路を横過つて崖の下の往來に跡る、陸地測量部の五萬分の一の上野原圖幅をたよりに松留の方に往く。紅葉には些と早過ぎる位で。常盤木にもさすがに秋の氣は伺はれるものゝ、何となくもの足りない。可なりな宿屋が一軒あつたが土方が大勢下宿してゐて僕等は泊り度くはないので、ずんずん往く。八澤といふ所は畫材があるらしい、途々鶴川に宿屋はあるかと聞くと、昔はあったさうだが今は甲州街道が變つたのて上野原でなくばないといふ。八澤に一軒魚屋で下宿人を置く家があ乃といふ事であつたが、僕等は兎に角上野原の方に往く事にして崖を上つて往く、崖の上の町、見る限り桑畑でかこまれた新たらしい眞直な街道の兩側に立ち並んだ平凡な田舎の町、汽車の齎す浮薄な空氣に滿ちて見えた、宿屋の主人の横柄さよ。僕等をじろじろと見ての應對ぶり、庇の町に、居るのがいやになつた、第一案の吉野に往かうじやないかといふで此處を引上げた、停車場前の去年SEが休んだ茶店で休憇して汽車を待つ。一驛戻つて與瀨驛に着いたのは秋の日の暮れ果てゝ三日月の光冴えまさる頃ほひ。月の光を浴び乍ら往く、渡船場の方へと降りて往く、月夜の渡船場、まあ何といふローマンチックな畫題だらう、『オーイ』と呼ぶと船が對岸を離れて來る、水を限つた崖は夢のやうにそゝり立つて居る、勝瀨の村がぼんやり霞んで見える、村はづれにも一つ渡し場がある、水で圍まれたなつかしい匂のする村だ、二つ目の渡し揚から上に往くともう其庭處が吉野だ。吉本屋といふのに泊る、おかみさんの話では此處へ随分畫家が來たさうだ。
 明る日ば早くから出かけて近い處からあさり廻る、紅葉には少し早いのが殘念だといひ乍ら畫材を探した、吉野の裏手の崖を上つて往くと村がある三人連を見て村の人達は仕事の手を休めて出で見る、TYか素早く美人を見付けて、此村に村長村といふ稱號を捧げることにした、それらら後にも二三度その村に往つたが、徃く度に美人は何時でも出て來た。
 その日の午後は奈良本といふ村に出かける、山の中腹にある可なり面白味のある村だ、三三の材料をスケツチして歸る。美人に眼の早いTYは吉野の中程にあるたばこやに美人が居ると報知した、宿屋から少し隔つて居て近處にたばこやのあるにもかゝはらず、我々は其處へたばこを買ひに徃く事にした、その店は荒物な賈つて居る、TYは一週の中に下駄の二足もわざとでもあるまいが打ち壞して此店の御厄介になるといふ始末。(未完)

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