三人の寫生行(一)

長谷川利行
『みづゑ』第八十二
明治44年12月3日

 寫生旅行などと洒落居るが其實鉛筆スケツチ位で濟し込んだり。風彩は僕が一番弱年で下等、同志者のK君大阪府廳のS君は人望とテレカクシで頗る上等、行く宿々での待遇は周到であつた。S君は油繪具を抱へ十二號カンバスを張込んで居たのに比較してK君に新調の大下先生撰擇の水彩道具イーゼルは輕快な奴で道行に僕の重たいのに泣かされる。どう見てもK君の長髪の重味で畫家らしい。前夜に日本橋の吉野館で合宿し八月三十一日の未明。箕面電車の人となつた、空にはコバルトの量多く快晴疑ひなしであつた。
  池田町で下車して壁の汚い河岸の家の畫題をさぐる。花月亭瓢屋、の遊び屋の裏には靜止したる水の面、面白ければとてK君は八ッ切を描く、藝者二階の窓より「オホ、、」と冷笑を浴せかける。K君たまらず嘲弄する。S君この二三時間の間に池田川にしたりて「女と赤き印象」といふ命題に洗濯女を板に描く、但しカンバスが惜しいとのこと、僕は敦賀の講習會で失敗せる経驗より穩なしく八ッ切を變化の乏しい表通の街を描き「瓦斯燈の朝」なんて言ふ變ちきりんな命題のもとに日向の研究をやつたつもりなり。遂に壁には趣味を感ぜず、池田に壁の古雅があるもんかいとは僕の言ひ草にして、K君は春になれば江川近邊へ出懸やうねと來年の話をする、鬼も笑へば人も笑ふ呑氣屋なり。
  池田の町は暗い處を好む人の好畫題である、町を離れて近郊より六甲山を畫に納むればワツトマン四ッ切位物になりさう、 大阪より廢退したる女の都落は池田に限られたる觀あれば女に邪淫にして風俗は從つて下司の方である、遊び屋などに入りて女のモヂルを得る人は可成經濟上もうまく遁げれば都合よからむ。家並は低いが酒屋も豆腐屋も菓子屋も八百屋も蕎麥屋も推し並べて家軒にあれば町の體裁は凸凹大小變化多きは一寸大阪邊で見られぬ街の寫生は出來やう。
  此日池田にて一泊す、族館の汚い事、客ありて初めて掃除し-て住ひくれる待遇は口の親切に遙か劣るコーヒ等夜食に出すは茶代の効能なるも面憎し。K君は三枚S君は四枚、僕は謹直にして一枚を僅かに得る。宿のメローを鉛筆スケツチするS君は十六燭をつけさせて夜間寫生とはデッサンに忠實であるとKが-賞める、Kと僕と二人は池田の町を歩く、橋を越えて寄席あり壯士芝居懸れり見物して十二時頃宿にてトロンをきめるこの間Sの身體不明、迷子となりし一夜、朝に及びて出現す。
  昨夜は町の方角が不明でどうしても宿へ歸れないので午前の宿に入つて泊つたとの言ひ解なり、僕苦笑して「お玩具の夢」を見て來たのぢやあないか。「或は然らむ」等例に依つて話し込んだり。彼此午前八時には(九月十一日塞暖計八十度内外、少し曇天)出發して電車停留所まで來る、Sは傘を忘れて取りに戻る間、寳塚方面、箕面方面ど作戰する旅途は大阪より池田にて電車、池田より箕面嵐で徒歩、箕面より生瀨へ廻り有馬は時日の許されざれば寳塚に到り直行して大阪に歸る三日の旅程、淡路も行きたし舞子も行たし紀州勝浦方面、高野山粉河方面、有馬など計畫ありしも職業の都合で思ひ立つた事なれば流れて終ふのも未練がましい、で、三人三日寫生旅行を開催した趣である 寳塚へ先へ行けば生瀨箕面と行けばよきも、行先の風景問題と旅の感興上の實際的なんぞ理論的に考へ出して目下二人の相爭、Sの賛成する方にしやうと待って居れば、Sはぬからぬ顏して飛んで來り、「傘なんぞおまへん」と腕鐵砲にて靑くなったのも道理三人連れ立つて宿へ談判せば梯段の下に立ててあるので「これはこれは」。
  徒歩で箕面へゆくと主張して止まず、Kの足弱僕の足弱共にヘコタレつっも約束の履行をする。
  「歩く方がよかつた」とKが言ひ出す。僕までが「そうね」と出たのでSは大意張、君等にもつと紳士的態度といふことを考へて貰ひたい電車に乘るのが紳士で徒歩が立ん坊の類など思つて居るから不可也」、「これはこれは」。
  村から村へ渡るに從ひ山の綠は重く近くなつた、稻の葉に蜻蛉釣る少年は「お爺ちやん寫眞とるか」と此邊でも寫眞かと聞くのが耳觸り。渓流せる一村に入れば(地圖には北の庄と名稱せり)裸岩散然として高丘あり灰色の家あり日光の關係上面白く、三人に三脚に尻を下ろす、Sは家と丘と渓流を慢然とスケツチする、Kは渓流を主にして前景を向ふの森の林、インヂコを多量に含有する景、僕は柿の靑葉を主にして家と渓流の景を描く獅子鼻の三十女は出で來り、破鐘の聲にて「美しいおます」と血相をかへてにやりやりする。墨ん坊の子供や湯巻其儘の女、どかどか集つて來て姦ましい。Sの傘は因果關係が付きまつわれると見えて「お母なんぞくれ」に飛んで行つた足に引かけて骨をめりめりと折つて終つた。「をい困るぢやあないか」と怒鳴つてもアカンベイをして家の中へかくれて終つた。其儘姿を見せぬ、Sに殘念がつて寫生をやめて損害賠償などと僕の座談をその儘適用するとはヒドイ。
  箕面では動物園、瀧安寺附近、瀧の上手、紅葉は色づかねどところどころ黄に染められて櫨の木や松の木やそこら雜木と異り色に温畜あるは深山の趣がある。總じて纒つた畫題は失望なりしも雅味あるは詩歌に唄ふ方がよいとは僕の贅言にして、Sは繪葉書店、橋の下に少年を立たせて描く、Kは動物園の動物を入れて背景と調和せる箕面寫生紀念にでもなりそうなスケツチを行ふ。午後三時半頃になりて勝尾寺へ行つてお寺で泊ると決行したれば、サイダーで腸の加減を損ひつっ、瀧の上手をさしてゆく、瀧附近には杉の古木優かに並木して畫趣である。 勝尾寺でに山門もよいお寺の景もよい、石段の樹木なども濃厚な水彩畫は出來やう、溪に下ると杉の林と山との調和がよい渓に下る附近は二日位餘裕がほしい四ッ切のスケヅチは得られやうと思ひつつ、其日は肺病患者が寢たといふ白布の蒲團につつまれて、山のお寺なればヒイヤリする氣分に風冐せねばよいがと眠る、明日の勝尾寺のスケヅチが夢に現はれたら幸甚。 申合した樣に五時起床、カンバス、畫版を朝飯を待たず持ち出して心のゆくままに足の向く方へ別々になつて別れた。 九時頃の朝飯の汁の味かつた事、スケツチを側へ並べて批評しつつ啜る。
  君の圖は色彩が單調だと云ふ。正確に寫生せねばならぬ。色盲にかかつて居るから話せない。そをいふ君の圖には主題となるものがない、等は飾らざる批評として有益であつたらう。
  飯後は正午まで各二三枚宛を描く。Sはとうとう二號をぬたくつた、Kは一尺四寸に九寸二分位のを描く、僕は四ッ切をやつたなかなか正午まで出來そうにない、またまた失敗せりかと、到底二三時間で四つ切一枚が描けぬとは殘念な次第である未熟極まる。
  勝尾寺では辯護士のB氏の令息が二人來て居た、中學の二年になつたと早う成長した事を僕に告げる十六ですかと問へば、十六だと女の樣な愛驕をして答へる、Sはモデルに欲しい盡力してくれと力を入れて言ふ、眞裸かになつてほしいといへば嫌だと云つてどうしても承知しない、そんならと浴衣を着て橫を向いたのを描く、中途で恥かんで奥へ遁げ込む。「あんな少年を抱いて寢たいとKはけろりとして居た。弟の方は愛嬌が少いが十三七つでお月さんの樣に圓い顔をして居る。
  勝尾寺はまだ夏だ、初秋とは云へ夏だ、葉月の感じがする、蝉が鳴いて雲が重たい、素的にさばけて居るのが秋の空の特色であろう、日射が強い、朱塗の壁は燃えそうに熱い、單襦絆を着流に坊主なんか歩く。寺男に反つて趣味性があると見えて、あの山の麓から紅葉して峯を赤く染めて終つた頃は此邊の樹木はばらばらと風に翻つて本堂の鐘がゴーンと鳴る、客もない、和尚も他泊私一人が寺守、寂しい寂しい委と手拭で汗をふく。僕も何んだか寂しくなつた、黑い犬が吼へて居る、黑い犬が走つてゆく、二匹の黑い犬が本堂の庭に戯れて居る、井戸の釣瓶は跳ねかへつて雨蛙が乘って居る、啼かない、橋の下で鈴蟲が啼いて居る、秋か知ら、ランプの心がジーと微妙する。此橋を書いて居るのは肺病患者の寢た蒲團の上だ、お月さんが出た、十六の勇夫君は僕の側でハモニーカを吹いて居る、Sは昔に寢て居る、Kと十三の務君とは寺男の化物話を聞いて眼をすえて居る、破障子から隣の客の頭が見える、頬邊が非常に痩せて居る、肺病!恐ろしくなつた、神經が興奮して來て眠られない眠られない靑い星が飛んだ、下の部屋から「喧ましいつ」と樂器の音をやめと云ふ、勇夫は小さくなつて笑つて居る、僕は今夜何を考へて居るんだろう、明日の旅の事は一寸とも思つては居らない、何か考へて居る、瞑想して居るんぢやあない、歡樂の夢を希つて居るんだろう、眠たくない、勝尾寺の秋の寂しい一夜には冷いウヰスキーの一杯とハムの一切とが欲しい。(二日勝尾寺にて) 豫期せざる勝尾寺では意外にスケツチを得て一日を思ひ懸けなく過す、Sは府廳の方に差支へるとて直樣歸阪するといふ。 では二人かいとKが非常識な事をいつて笑はす、兎に角左樣ならと箕面の入口まで送つてやつて、二人は勝尾寺で一日を安閑と暮してKも四日にに京都へ歸つて置きたいと主張するので三日の午前勝尾寺を出立して箕面の山を下り電車で歸阪することにした。
  勝尾寺でば捺印を頂戴に奥の院まで出懸る、奥の院の坊主は物體なくも一々捺印を押し戴いて、繪葉書の各々指定する所に押してくれる、幾ら上げませうと云へば、もうもうと牛の樣に頷いてどう致しまして御心ざしで結構ですと物體ない、Kは袖袋から二十錢を置くと疊の上にヘコヘコ物體ない頭を押しつけた物體ない。
  君張込みましたねと云へば十錢と間違へたが出したもんだから致方がないよと榮耀云つて居た。捺印の押方が潰稽地味てるのでB氏の坊ちやんはクスクス笑ふ、和尚は眞赤になつても頂いて有難い有難いと捺印して居る。二人も輕侮を感じて遂に奧の院の出口で思ふ存分吹き出した。こんなきまりの惡い滑稽はなかつた、澁つた色とは斯?氣分をいふのでは無かろうか。
  此日各八つ切四枚を得る、R氏の坊ちやんと四人勝尾寺の坊主に寫眞を取つて貰ふ。泊料は一日六十錢とは山寺の不味い菜汁では高過ぎる、一週間とか一月とか居れば三十錢位に致しますと賄の寺男が素氣なく云ふ、彼?肺病患者や脚氣の人が靜養する一棟に誰が一週間も一月も住居出來るもんかいと寺男に云つてやると「おまはんは阿呆や、新しい空氣は斯?山寺に限るんだ」と地へ唾した。二人は樫貪に出立したが二三日坊主の知己にあたるのでお父さんかお母さんのくる迄滯在するとは寺男の誰彼なしに自己告白をする五月蚫味を感ずるであろう、よくも寂しくないと居殘る二人の身の上を思つた。
  三人寫生旅行は二人寫生行となり、計畫も秩序もあつたものに非ず、反つて面白いなんてKも流行節にかぶれしたもんだと賞めて置いて「何んて間が好いでしやう」。
  (九月三日圖書館にて)

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