景福宮の春
健堂生
『みづゑ』第八十二
明治44年12月3日
春風若緑を戰そぐ日柏楊小葉黄ばみ春心地す、新四月内地櫻花にあれど朝鮮いまだ桃花の開くをも見ざるなり。予景福宮を見んとして光化門前に到る、道路廣巾にして住昔諸官衙兩側に築立されありしも今時洋式建築四五棟を見うく、左側朝鮮近衞隊兵營あり一人の歩哨門前に立つ。門前南方を睨む大唐獅子二頭の石像あり、此像傳話を聞くに、此の景福宮昔時建築成りし時、南方に聳ゆる南漢の峯より噴火あり火塊京城市中にまで飛散し來り、王城及市中を全燒せし爲め、此の二像を作り飛火をうけしめ、其後火災を見ざりしと言ふ。
抑も此の宮は、昌慶昌德雨宮以前の建築に係り、太租李成桂統一後の宮城中最も古きものに屬す、我が文祿年間民亂に罹り殿閣堂宇悉く灰燼に歸し、爾來二百五十有餘年蓬草の裡に殘礎を存する而巳なりしが、先帝即位の初大院君摂政に當り、王室の式★を痛嘆し、奮然一大勇斷を以て無前の大宮闕を建築し、大に皇室の尊嚴を立奉れり、時之れ實に我慶應元年なりとす、其後三十餘年間の王政は一に此宮闕より出で、明治二十八年に至りて、未の變あり、皇帝は遂に此宜闕を見捨て一時露國公使館に遷幸せられ、越へて一年現皇居なる慶蓮宮に環御在らせられたり、是より以後石門堅く鎖され復た鳳姿の影なく、蘭麝の香なし、今時一週三日宮を公開し觀るを得、城の周圍一千八百三十歩、墻壁の高さ二十一尺、四大門を設け、正門を光化門と稱し、北を神武門、東を建春門、西を迎秋門と名づく、門内併合前守衞の巡検居たり。
門前に於て切符を求め、初め光化門の天井畫を見る、畫一は海龜一に驢馬の虎に似たる如き、一は色をうせて見得ざりき、門二層樓にして壯麗且大なり。
宮庭若草黄色に生へ、彼處老柳木の糸枝黄葉を垂る邊破崩の家屋列らなりあれり、小石橋を過ぎ勤政門をぬけ勤政殿に出づ、殿前四五の石段あり、正一品從一品より從九品に到るまでの石標兩側にあり、之則ち正一品の勲位を有する者、其の石標まで來り皇帝に謁したりしとか、殿周石及練瓦を敷き詰めあり、殿内を伺へば四五の大柱天井高く、正而に玉座を設け背後の壁畫は北漢山の景なりと云ふ、床なく瓦を敷きたる土間日中薄暗かりき、此の殿則ち政を司りし處、軒下に二個の大火鉢形なる鐵桶あるを見ん。予二三枚のスケッチを得、後方に廻れば三四の門あり、四五殿閣ありき、之皇妃の居室及皇。帝の寢室等なり、枯芝春風に靑子を生はし、番人もなく發宮の愁寞庭荒れしとも掃除する者ぞ無きなり。(未完)