水彩畫の今昔(二)
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
故大下藤次郎
『みづゑ』第八十三
明治45年1月3日
其後、明治美術會の會員中で、新しく歸つた黒田、久米等と云ふ人の派と松岡、小山、淺井等と云ふ人の派と、團體が二つに爲つて、白馬會と云ふものが新に生まれた。三十年の秋、白馬會の展覽會が上野で開かれた時には、此會に屬して居る水彩畫家には、中澤君及び矢崎千代治君等があつた。三十一年に明治美術會の十年紀念會があつた時には前に擧げた人々の外に、丸山晩霞、吉田博など云ふ人の水彩畫も澤山見えた。其後、三十四年に明治美術會は太平洋畫會に引繼いで仕舞ひ、青年間で其會を維持する事になつて、一層水彩畫家が殖え、今日では澤山の數に上つて居る。毎年の展覽會の出品は、殆ど油繪と相半して、百四五十點を缺かした事はない。白馬會の方は作家が二三に過ぎず水彩畫は餘り振つて居ない。次に、博覽會等で見ても、極最初の時代は主勿論水彩畫はなくして、二十三年の博覽會には、丸山晩霞君の出品がある、夫れは油繪で、水彩畫ではなかつた。其後、二十七年の京都に開かれた博覽會にも京都の中林と云ふ人が、僅に一點の出品をした切り、他に水彩畫はなかつた。然るに四十年の東京府の博覽會には、其數二十七點の多數に上り、又年々文部省の展覽會にも、澤山の水彩畫を見る事が出來た。更らに外國の博覽會では如何であるかと云ふに、前のアメリカ博覽會には、日本の水彩畫は一點も出なかつたが、明治三十何年の巴里萬國博覽會には三宅君と私とで、四五枚程出品した。それから、先頃のセントルイス博覽會には三宅君の出品はだうであつたか、私は二枚出した。斯う云ふやうに水彩畫と云ふものは描く者も多くなり、世間に見せる機會も殖えて來て、隨つて又繪の質も大變に變はつて來た。其中には外國ヘ遊學しれ人等があつて、それがために、非常の進歩を見せたと云ふ事實もある。同時に、世間一般が繪に對する注意も深くなつて來て、殊に水彩畫の趣味は全國に普及した。これに畫の書物が出來たり、學校の敎科書の出たりした關係もあるやうに思はれる。
三宅君が始めて外國に行かれたは、三十年の夏で、歸られたのは翌年の秋であつた。恰度其頃、私も濠洲の方に行つて、種々の水彩畫を見て來た、それで大變話が合つて、それまでは未だ油繪の方に未練があつたが、愈々水彩畫で生涯を送ることに定めた、其時分盛んに描いて居た吉田博と云ふ人の感化で、久しく郷里に引込むで居つれ丸山晩霞君等も、大に水彩畫を始める事になつて、恰も三人考へが合つたものであるから、其結果として、三宅君は歸朝後間もなく、信州の丸山君の郷里に行つて、共に製作をして、私と一所に水彩畫丈けの展覽會を開くと云ふ相談も行はれた。それはお流れになつたが續いて三宅君は再び外國ヘ行かれ、丸山君も行く、私も行くと云ふ風で、益々其の研究を遂げ、今日の處では三人だのが純然たる水彩畫を行つて居る。又明治三十四年に私は『水彩畫の栞』と云ふ書物を公にした。無論本屋では之★發行するに躊躇した。
それで蒲原有朋君の知つて居る雜誌社から、僅に千部だけ出すことにした。處が幸に能く賣れて、今は二十餘版に達して居る、これ等も幾分か、水彩畫を普及せしめた動機になつて居ると信じる。油繪は、人間の力では此上の物は出來まいと思ふ程、詰まり餘地のない程、既に形式の極致に達して居るやうに思はれるが、水彩畫の方は漸く此頃、油繪と對抗するやうなものが出來る位ひで、前途中々遠ひ。從つて、日本人で油繪を描いて、外國に打勝つものを製り出さうと云ふ事は餘程遠い未來だらうと思ふけれども、水彩畫ならば、毛筆畫の關係上から云つても又日本が水彩畫的に出來れ景色に富んで居る點から云つても、左程難しい事ではあるまい、今日イギリス邊で出來て居る位ひのものは出來るかも知れない。又幾十年、幾百年の後には、日本が水彩畫に於て一番優ると云ふ時代が來ないとも限らないと思ふ。何かして此趣味を普及し、同時に日本の一つの國藝としたい、自分の技術も無論研くが、それよりも水彩畫に對して眞面目に研究する人を造りたい、又一般にも、其趣味を持たせたい、さう云ふ考で、自分は雜誌を造り、或は同志と共に研究所を設け、毎年講習會を開いた、かくて、それが爲め自分の製作も犠性に供して居る、しかし幸ひ今は、專門家中にも同情者があつて自分の事業を助けて呉れるから、半ば、目的は達せられやうに思ふ。
それで何うして水彩畫の方に有望であるかと云ふに、結局水彩畫が日本の國民性に適して居ると云ふのである。日本の古畫には、非常に立派なものがある、自分等は深くこれに尊敬を拂つて居るのであるが、今のやうな世の中に、假令へ雪舟見れいな名人が出て描いた所で、今日の新しい思想を持つて居る人に、充分の滿足を與へると云ふことは、日本畫ではよほど困難であらうと思ふ。從つて、今日西洋畫に一般の思想が傾ひて居るのであるが、西洋畫と云ふ内には、油繪と水彩畫を含んで居る、その内油繪は、自然の感じを充分に現はすに、繪具その物が頗る重寳である、それを用ひて一般に滿足を與へ得るならば、これに上越すことはないが、日本人は昔から東洋趣味とでもいふか、今日の樣な油繪を歡迎しない傾がある、それは他の美術に就いて見ても解かるし、衣食住の關係、及び總ての嗜好に就て見ても解る、油繪の至極淡白に描いたものよりも、水彩畫の濃厚に描いた方が見れ感じが瀟洒である、薩張りして居る。繪具で景色を描いた、其材料の上から左樣に思はれるのであるから、技術の如何ではない。まれ富の上から言つても、建築の上から云つても油繪よりは水彩畫の方が、日本人に適して居はしまいか、適者生存の理から、將來は今より一層、水彩畫が進歩し、發達して行くだらうと思はれる。例へば樂器にしても、水彩畫がヴァイオリンなら油繪はピアノに相當する。ピアノは大變に重々しい調子であつて、大さも、小さい家には入り切れぬ、而して不廉である。ヴァイオリンは何處ヘでも持つて行け、ピアノの如く重々しくなく、輕快の調を出す。このピアノとヴァイオリンと、何れが日本人の嗜好に適するかを考ヘたならば、油繪と水彩畫も思ひ半に過ぎるであらう、之れは單に一例に過ぎない、斯かる專門的の説は別として、一般の人の修養、娯樂の上から云つても、水彩畫は大層輕便で、有益であると思ふ、何故ならば、習ふに最も都合が好い、日本畫を習ふには色々規則があるが、順序が能く立つて居ないために、才のある者は速に覺えるけれども、左もないものは中々進まない、西洋畫の方は、或る一定の場所までは、規則立って敎ヘることが出來る、だから自分は不器用だから、繪が描けぬと云ふ事は決してない。叉稽古する上から云つても、音樂などは修業中、隨分人に迷惑を掛けるが、繪にそんな憂がない、面して、其趣味は、自分一人を樂しましむのみなむず、又遠くある友人を樂ませる事も出來る。音樂の如く一時的でなく、永く保存して樂む事も出來る。擧げ來たれば、其利は限ない事であるが、他の理由から、水彩畫が最も日本に將來發展の餘地があると云ふのは、東洋人、特に日本人は自然に對して趣味を餘計に持つて居る、ヨーロッパ大陸では、ギリシヤ彫刻か何かの關係から、人體美を貴んで、裸體畫等の研究が重になつて居る、總て人物の方が立派に出來て居るが、ヨーロツパの内でもイギリスヘ行くとスコツトランドから彼の湖畔詩人が出たやうに、自然について歌つてゐる詩が多い、從つて自然を描いた風景畫が多い、天才のターナーは殆ど景色畫ばかりを描いた、其他ヨーロツパ大陸でも、景色の好い處には風景畫家が出て居る東洋、殊に日本の歌は殆ど自然を詠じて居る一つは信仰にも依るのであらうが、大概暇があれば旅行をしたがる國民で、禮所參り、富士山登り、大和巡り、松島見物、自ら自然に對して味趣を持つて居るためか、或は無意職かも知れぬが、兎に角日本畫の上来のものは、風景畫にあるやうである、雪舟の繪でも、其他誰の繪でも大概風景に優秀のものが出來て居る、水彩畫は其の風景を描くに最も適して居る、之は外國の大家も、批評家も、左樣に言つて居る、輕い空氣の調子は、白い紙地を利用した水彩畫の方が、確かに能く出る樣に自分は思ふ、油繪は人物にも風景にも適するが、殊に人物畫の方に重寳であつて、水彩畫は人物の方に困難が割合に多くして、油繪程自由に行かない、又大きい畫を描く事も油繪のやうに自由に行かぬが、從つて旅行等には、油繪よりも便利な點が多い。要するに風景畫には水彩畫が最も適して居ると思ふので、此傾向は日本のみでなく、イギリス邊でも年々のローヤル・アカデミーの景況を聞ひて見ると、(水彩畫會と云ふのが別にあつて水彩畫許りの展覽會がある)、水彩畫の出品は、無論其數に於ては他の繪よりも少ないが、然しその賣上高、及び賣却數は、水彩畫の方は多いと聞いて居る。斯ふ云ふ具合に、一般の家庭でも、水彩畫を愛するやうになつたと思はれる、無論風景畫が多いのである。