日記抄(絶筆遺稿)

大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ

故大下藤次郎
『みづゑ』第八十三
明治45年1月3日

 著者吉江孤雁氏より贈られた『旅より旅へ』を讀むだ。孤雁氏が自然に對して厚い憧憬と深い興味とを持たれてゐることは前かち知つてゐた、かつて早稻田文學に信濃の冬を背景にした小説を見た時、氏がローカルカラーを描き出す其筆の力の自在なるに恐服しれ、またいろいろな雜誌で氏筆になる山國のスケツチを見ては、こゝに自然愛すること濃やかなる、烏水氏にも比すべき有力な人を得たのを心強く思つた事があつた。今此書を通讀するに、氏の筆は單に自然そのものゝみでなく、自然と結びつけられた人間の上に迄も、その鋭い觀察が注がれて、色彩は一層濃く一層鮮やかに表現されて居る。全編を通じて、私は小品のスケッチよりも長い紀行の方を面白く思ふ、一は私の草鞋の地が描かれてあるためかも知れない。(九月五日)
 早川慮生氏始め丹羽默泉、加藤靜兒、其他の諸君の經營になる名古屋愛山會では『印象』といふ『方寸』に似た雜誌發行された。『印象』は快よい響を齋らす名である。内容の文字は美術文學を主として數個のさし繪もある。飛出でゝ變つた議論もないが一つ一つ捨て難い趣もある。兎に角名古屋で此位ひな立派な雜誌を出し得るといふ事は私に取つて實は意想外であつた。
 狂同會の演藝部では、近きに試演を催すさうだ。私は遙かに其發展進歩を祈つてゐやう。(九月十三日)
 珍らしくも一週あまりを蓐中に暮した。秋は九月十月、春は三四月の候に、二三日氣分の勝れぬこともあるが、今年は稍永く靜養しなければならなかった、八月の旅の疲勞もあらうが帰京後の仕事を少くして過度であつたかも知れない。
 今日は心地がよいので庭ヘ出て見た。淡紅や白や、大輪の芙蓉が、手★届かぬ雜草の中に美はしく咲いてゐる、地に這ふてゐる朝顔は、鮮やかな瑠璃色の花を模樣のやうに芝生に彩つて唐る。ダーリヤの露亂れ狂ヘる日向葵の男々しき姿、その根元をかざる紫つゆくさ、くらき★たりに風にそよぐは糸柳の校であらう。
 たゞ一本の栗の木は、幾百となき青い球が葉がくれに見ゆる。
 柿の實ははや色づいて中には眞つ紅くなつたものもある。もう三十年の昔であらう、父に手傳ふて此木を接いだ時のことなど思ひ出されてなつかしい。私は畑の隅から漸くさきかけた嫁菜の花を手折って机上の小さな花瓶にさした。(九月十九日)
 東京版畫倶樂部發行『草書舞臺姿』第三集を手にした。帝劇九月狂言、訥子の松平吉峰、高麗藏の婦輪牛次、長十郎の敦盛、梅幸の幸之助の四枚を一組としてある。例によつて簡潔に心地よいもので、坂本氏と山本氏と、何れも優り劣はないが、山本氏の方が線に大膽な處があるやうに思はれる。此は氣の利いた装幀で、價も安いから、くだらぬ繪はがきなどよりも歡迎されやう、そつと本箱に仕舞つて置いて、三年五年の後に、雨の日にでも出して見たらさぞ樂しい事だらうと思ふ。但兩氏共、こんな仕事は面白づくでやるのだらうから、興が盡きたらいつ止めるかも知れない、どうかそのやうな事のないやうに御願ひしたい。(九月二十日)
 午後有樂座に大坂堀江の人形芝居を見た。この春御靈文樂座で見た時と同じ感じである。現代の空氣に調和すべきものではなからう。(九月二十日)
 文藝協會の私演日といふので、午後三時から、雨の中を牛込大久保の同試演場へ往つた。新築の舞臺は質素ながらも心持がよかつた。社會劇『人形の家』、舞踊劇『寒山拾得』『お七吉三』『鉢かずき姫』何れも成功であつて、近頃になき愉快を覺えた。舞臺は小さい。優人は經驗に乏しい。それにも拘はらず私共をして少なからず滿足せしめたのは、登場の俳優は勿論、すべてが一生懸命に、極めて眞面目であつたからである。嚴粛なる意味の眞面目は、幾多の缺點を掩ふて餘りあるものではあるまいか。
 (九月二十二日)
 日本水彩畫會研究所の月次會のため午後からゆく、暑中休暇からまだ歸らぬ人もあるが、それでも例年よりは繪の數も多く立派な實の入つた作も澤山ある、どの繪を見ても若い人達の溢るゝやうな元氣が充ち充ちて、言ひ知れぬ又夾やかな空氣が陳列場に漂やうてゐる。大野謙一郎氏の『市ヶ谷の夕暮』篠原新三氏の『日なた』、尾崎定次郎氏の『上州の山』、水野以文氏の『赤城血の池』後藤工志氏の『日比谷公園』は特によく、以上の五點には賞がついた。其他瀧澤、赤城兩氏の『上高地』、八木氏の『別府』望月氏の『足尾』など、優秀の作も少なからずあつた。研究所學生の製作は、月毎に好成績を示してゐる。これ等の製作は、太平洋畫會の一室に陳列せらるゝのみでは滿足出來なくなつた、來秋は水彩畫のみの展覽會を上野に開くべく計畫中である、此企は水彩畫趣味の普及發展の上に必ず有功であらうと信じてゐる。
 子爵田中阿歌麿氏は、日本に於ける唯一の湖水學者である、身は華冑の生れなるに拘はらず、年々暇あればあらゆる困難と危険を侵して各地の湖沼を探究せられて居る、子爵はいま諏訪湖について深い研究を重ねられて居るが、全日は同湖に縁故ある人達の集まりがあるからといふので、私も晩餐の御席に列することになつた。
 植物學者、敎育家、土地の好事家といふやうな人達、主客六人閑雅なる新邸の一室に、諏訪湖を主題としてさまざまなる物語が取交された、主人は私に諏訪湖の風景感を述べよと需められれ、凡て風景の美は二通りある、形貌に於てまさるもの、感じに於て特徴あるもの、吾が諏訪湖は後者に屬してゐる、偶々の素通りや二三泊位ひで、其風景の美を斷定することは出來ない朝夕、霧、雲、驟雨、そのやうか現象の時に見るべき湖水であるから、少なくとも一二ヶ月滞在しなければ、諏訪の景色につき彼是言ふ資格はあるまいと御答へした。
 諏訪湖につき新しき智識を得て、席を辭しれのは十時ごろであつたらう。(九月二十四日)
 程なく文部省美術展覽會が開かれるので、毎日のやうに新聞社から出品の消息をきゝに來る。秋の展覽會。かつてはそれがために特に畫室に籠つて製作に從つたこともあつたが、私のその氣分は大に變つて來た。
 私は一二年前から展覽會のために特に製作をしない、一年間の製作――自分が何等の目的を待たず何等の意を成さぬ――のうちから、目欲しい作を大平洋畫曾ヘ出して居た、大平洋畫會に間に合はなかつた作、又は其後に出朱たものゝうち、鑑査に通過しさうなものを一二點搬入するのに過ぎない何等の野心なく、自己の氣分の動いれまゝに出來た作品が、公衆の前に陳列されたなら、私にとつては大なる仕合せで、不幸にして鑑査に通過せずとも、殘念に思はない況んや擬賞をや、如斯は美術家の眞面目な態度ではあるまい、また美術に忠なるものとも思はないが、如何せん、私の近頃の傾向は、単に繪畫の上のみでなく、人生そのものに對しても、眞劒になり得ない、淡く輕く無邪氣に、何者をも所分して行きた。
 眞身になれない、執着力が乏しい、熱が足りない、極端に迄ゆき得ない、私は繪畫の上にはアマチユアとして人生の上には禪僧のやうに、ライトタツチに滿足して居るのである。
 私自身はかく功名心も物慾心も漸次消失してゆくが、若い人達に私の眞似はさせたくない、研究所の學生諸君には絶えず鼓舞奨勵を怠らぬつもりである、今秋の展覽會は日本水彩畫會の秀才によつて、水彩畫部に光彩を放たむことを心から冀つてゐる。
 (九月二十六日)
 新小説が十月號で『繪畫研究』と云ふ欄を設けたから何か話をしろといふので、書籍の装幀と批評家の態度とについて少しく語つた。さてそれが活字になつて見ると、大たいの意見に相違はないが、往々間違つた處もある、特にヒドイ間違は、私が世間の目が高くないと美術は進歩しない、丁度藝人などが山の手と下町では氣の入れ方が違ふやうに、下町の御客を前にしてゐると一生懸命になるといふ意味を、只山の手と下町を反對にして書いてある。江戸通、東京通の人が見たなら、さぞさぞ私を山の手贔負の田舎者と思ふだらうと、考へると耻かしくも可笑しくもなつた。
 ある婦人雜誌の記者にも談話したが、同じく仝月の雜誌に載つれ、見て行★と私の話た事には相違ないが、實に名文と云ふのか艶文といふのか、恐ろしい美文で巧みに書いてある、私は何はなし、まるで他人の文章を讀むでゐるやうに思へた。(九月三十日)
 

 夏の旅の疲勞、感冒のコヂレ、そんな事で今だに元氣がない、研究所の見廻りも休み勝である、なさればならぬ仕事もあるがこの頃の多くは半日を蓐中に過してゐる。例の暢氣から、仕事は仕事として捨てゝは置てあるが、會友からの作品の批評は聊か氣になる、それに本月中旬の深山の秋を寫生すべ★往く處も極まつ★ゐるのに、どうやら往けさうにもないのが殘念にも思はれる、併★別にこゝといふて身に痛みもなく、氣分にも變りはなし、横になつて好きな書物や雜誌に親しむでゐらるゝのは満更惡いこともない、そして、このやうにしてもその日を送り得る浪人生活を難有くも思ふのである。(十月二日)
 青梅の鵜澤四丁氏から、青梅鐵道會社發行の風景繪葉書十七葉を贈られた。圖は多摩川上流日原の鐘乳洞、日原川、氷川渓流、奇橋、瀑布等である。私は曾て氷川迄往つて、其幽透な秋の美觀を味つたことはあるが、日原はまだ知らぬ、聞く處によると氷川に捻して猶一暦閑寂な趣に富むでゐると云ふ。此地の紅葉の盛りは天長節前後であらう、青梅鐵道の終點日向和田より七八里、丁度一晩泊りによい處である、その頃研究所の秋季寫生を此地方に試みて見たいととも思ふ。(十月三日)
 附記、此日記抄は先生がに在りてものせられし最も新らしき遺稿に屬す。本文は十一月號みづゑ原稿とすべく筆執られしものなれども混雜の爲め一時所在不明なりし處、其後遺稿整理中、端なくも此の新らしき本稿を發見せしかば茲に掲ぐるものなり。

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