非人情の記

幸雄
『みづゑ』第八十三
明治45年1月3日

 世の中は刺戟が多すぎる、悲しい事、嬉しい事、憎らしい事口惜しい事と後から後から絶えず心を動す事共が連つて出て來るので、僕の心は靜かな折とてはない、苦い涙紅い涙、涙は常に洞く間は無いのである、世の識者らしい人に之を問へば、『人生の酸味に飽く』とか嘯いて居る、人間萬事塞翁馬とかを説いて悟り顔をする。そして『何だ是しきの事に‥‥おまいも未だ若いな』と云ふ樣子が見える――そうだ、僕★未だ若いのだ、觸れては躍るハートがある、湧いては溢れる熱い血がある青年だ、安心して悟つた顔の出來る所謂識者の心持ちにはなれない彼等は悟つたと云ふ、左樣ではない、若い血が涸いて、凝りて固まつて冷たくなつて居るのだ、ピリピリと動く神經が鈍くなつて刺戟に感じが薄くなつたのだ、動いて止まぬ感情をば是が世の中の常なりと冷靜に見られるのではなくて感情が動かなくなつたから斯様云ふ事に心を勞する必要が無くなつたのだ、之を稱して悟つたと云ふ、是等の人は慰安にも何にもならない。兎に角世の中は刺戟が多すぎる、僕は時々實に堪られなくなる事がある、僕の感じ方が多過ぎるのかも知れないけれども自身の其情は今別にして置いて僕には世の中の痛さ痒さ執濃さに身も心も疲れ果てゝ靜な所――靜かな所と、何所かへ飛で行つてしまいたくなることがある。ほんとに幾度もある。
 僕は夫で畫に逃れた、又時に書★古人を友とする事もある、しかし是は永く續かぬ、寫生に出掛けたとて行倒れのおばあさんに會はぬとは限らないし、特に書物の中には随分憐れな事共が多い、讀んで居る間に顫つてしまふなど稀とは云ヘない、ア、刺戟だらけだ。
 僕は去年の六月高等學校の卒業試驗がすむと直樣湖南の地ヘ逃げ出した、大磯の地――俗でなくはないけれど東京よりは餘程いゝ、電車が驅け出さない、巡査や泥棒が餘り澤山居ない、一歩外ヘ出れば最早白雲一片去て悠々の果は自然界だ、相模野は廣い鳥は鳴く花水川は流れる、流れの末には大山が黒く聳える、流を下ると太平洋の浪が泡を白く飛はして居る、金を持て來やがつて、松靑い天然の海岸に別邸とか云ふ砲臺見た樣なものを築いて、夏の外は年中閉め★つて居る奴等の多いには、幾度が口惜しさはあつたが、七月十九日の大暴風に太平洋の浪が逆さに捲いて來て、がりがり亡者の砲臺を見事に、すつ飛ばしてくれたには、實に痛快に堪ヘなかったので前の口惜しきが帳消しにされれ、富人の專横を見度いのなら諸君、大磯へ行て見給ヘ、馬鹿げた事が有りますよ、御歴々の方が海岸へ別邸を立てると其周圍に高い高い石の塀や、竹の垣根の素適に丈夫な奴を作つて青松白砂、三千里の★風が吹き通す海岸へ境界を一生懸命に作る、垣の外だつて松原と砂に過ぎない、垣の内だつて松と砂に過ぎない、何ぼ田舎の泥棒だつて松の木や砂を盗みに來やしまいま、して盗賊よけには住宅の周圍に今一層頑丈な土塀が御丁寧様に築いてあるから外側の垣根は全然無意味になつでしまふ、只々是丈は自分の持ちだぞと威張り度がる淺ましい人間の根性に駈られて、美しい自由な濱邊に砲臺を作りて村の小娘が松葉掻くのに邪魔をして、更に其上遙々東京下りから刺戟に避易して逃げて來た我輩にまで散歩逍遥の『通せん棒』となつて富人の馬鹿を買らせる具となる、特に面白いのは地文學の敎へる砂丘の理によつて富人が御丁寧に作り上げる此垣根を自然の力は風吹く度に精々と壞して居る、垣根が出來ても、出來ても砂の力は之を毎度々々直きに壊す、大磯の西の方の砂山を深く堀つて、見給へ古い垣根の根が幾つ出て來るやら。
 湖南にも人間は作むで居るから、刺戟も决して無いではないけれど、又癩の種子は有るにはあるけれど、刺戟の籔と其濃さは余程少いもの故、僕は久しぶりで長閑な氣になつて遊んだ、『それから』の代助が日の當る椽側に花の香を聞きながら、寝て居たと同し樣な心地で大磯の夏を呑氣極る暮し方をした。
 漱石の草枕を讀んだ、すつかり感心してしまつた、僕の要求して居る事を此位明瞭に表はして此位確かに答へをしてくれた誰は少い、人情の電氣に身體がしびれて、眠くなつたのが僕の心地だ、而して此を厭とて人でなしの國ヘの移轉は出來ぬ、そうだ要は暮し方にあるのだ、自分が其の中を見る観方にあるのだ。
 『山にても住み憂か★せばいづち行くらむ』
 そうだ人の世には何所へ行っても刺戟は絶えやしない、只刺戟の受け方で如何でもなるのだな、無暗に人情の電氣の起らぬ樣にする、世の中を芝居を見て居る氣で見る、自身を第三者の位置に置いて客觀的に人の動くを見る、世の中で働く人は舞臺面を離れないから自分と衝突を起さない――注意を要するのは僕自身が役者に釣込まれて舞臺に飛出して一所に所作をしない事だ、之を稱して非人情な暮し方と云ふ。
 僕は人に同化され易い、可愛想になると人の事だか、自分の事だか解らなくなるのが常だ、小説を讀む、人の物語を聞く、すると宅人公が誰れだか自分だか解らなぐなつて泣いたり笑つたりする物騒な人間だ、街巷で可愛いものを見る丈でも猫でも小供でも、草花でもいゝ、僕は之に觸らずには居られないたちだ緑日イ、楊子萱りのおばあさんが可愛想で堪なくつて、御母さんを困らせた事もある、此間初めて帝劇ヘつれて行かれて姉輪兵治が憐れで涙をこぼして笑はれた、二三日前常年坂つて廿二歳の角帽の髪面で居ながら恥しくも家戀しさに堪らなくなつて、遙々十里の遠方を、御苦勢檬に夜十二時頃飛で婦つて家のお母さんにすつかり笑はれた位、少し何とかが回り兼ねる難病である、斯様な奴には芝居見物の心持ちの修養非人情のお稽古が極めて必要だ。
 草枕を讀むでからさあ非人情にやつて見度くて堪らない、毎日非人梼非人情と考へながら暮した、先づ一着手に非人情な旅行をして芝居見物流の腕だめしをしなければならない等と考ヘれ、旅行々々早く何虎かを歩き度い。
 七月も末になった、塵の都から塵の人間が汽車に積まれて澤山大磯へ途られて來た主海岸の砲臺の窓か開き出す、『消毒濟明間あり』の札が漸く減じ出した、海岸にリボンが飛び出した御寺の奥の間にバイオりンの音が軋り出した、烟草屋等の二階から海水清が乾されてドーマ聲の琵琶歌が吼り出した、磯松風に香水の香がし出した、大磯の非人情が大部怪しくなつて來た、早く旅行に行き度い。
 ポカンと建さんが訪ねて來た、建さんは横濱の金持の季つ子で御母さんの眼の中に入つてモ痛くない程可愛がられ甘やかされた僥倖せ者である、而して僕等が兄貴振れる唯一の人間である頓馬な我輩に兄事するのだから餘程馬鹿に相違ない、『建さん泊つて行け』『ウン』建さん初めつから宿つて行く氣である。其夜建さんと僕はサイダーをさげて海岸へ行つた、所が大磯は何かの御祭りで海岸は素適な賑いだ、角力もある、神樂もある、而して見て居る奴等は例のハモニカの吹けそうな歌留多の取れさうな兵古帶ゃリボン連計りだ、未だ非人情を解せない建さんは大部其所に見て居たそうなのを無理に引張つて遙か距つた砂丘の麓ヘ踞つて海で冷した心算で未だ冷ヘない生温いサイダーをラッパ飲にしながら我輩大に兄貴振つて諄々と非人情を説いてやつた。
 建さん初めは仲々得心が行かなかつたが漸く一夜の御説教ですつかり我宗旨で洗禮をされてしまつた。
 『僕も其非人情と云ふのをやり度いな幸さん』建さんは無邪氣だ。もうすつかりやり度くなつて居る。『幸さん、非人情な旅行をしやうや、金はあるよ』
 鬼ならぬ幸さんは此所に金棒を得たわけだ、勿論賛成した、明日行く事にした、行先は?――行先をきめるとつまらなくなるから只漠然と國府津まで汽車ヘ乗る事とする、後はほんとうに足の向く次第である、携帶品は僕は繪の道具一式、建さんには荷物が無いから僕等の雜嚢を負はせる事にする、其中に此旅のバイブルたる漱石の鶉籠一册と、ビスケツトをこてこて入れた、ゆかた掛けで下駄ばき、頭には滅法大きな海水帽、時によりや臀ばしよりにでも洗足にでもなる心組だ、變手古な風體だらふが建さんが『一種面白いハイカラだね』と云ふから呆れる、建さんはハイカラか忘れ難い男である。
 非人情な旅の前の晩だけれど建さんも、幸さん★、さすが弱虫で、人情たつぷりな手紙を夫れ夫れ故郷の姉さんや御母樣に出した、『日夜山野を跋渉』等と威張るかと思ヘば『御母樣、家から離れてるとほんとに淋しくつて…』なんて甘えて居る、未だ非人情第一年生だもの、是れから大變な旅行が初まる。

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