展覽會には繪が多すぎる
『みづゑ』第八十三
明治45年1月3日
美術批評家――この美術展覽會は、實にやり方が間違って居る、ほんとに如何かならぬものかなあ、僕は思ふよ、現今の展覽會には悉く或る空氣を欠いて居て可笑しくて堪らない、是と云ふのも一體展覽會なるものゝ組織原則に缺點があるからだらふ、
展覧會係――「何さ?君は、今の展覽會のやり方に何か嫌らない所があるのかね、公開展覽會なるものが、開かれる必要がある以上だ、其開會方法は、經驗上便利だと思へるやり方に依る外はないと僕は思ふ、僕だつて、美術展覽會が有害な事も知つて居る、展覽會が嫌な物であつて、何れかを云ヘば、力を入れる可きでないとも認めて居るよ、けれども考へて見給へ展覽會が有毒ながら存在を許されるなら同時に其性質も、變へる事の出來ぬものと認めて行かなければならないではないか、
批評家――「馬鹿を云ふては困る、美術展覽會は實際悪い性質のものであつて其悪い事は永劫取り除くことは出來ない、是は僕も残念乍ら認めるけれど又一方に少し注意を拂ひ少し頭を用ひさへすれば其害の尤なる蔓のを除き藝術に對して現今程有害でなくする蔀が出來ると思ふがね、
青年畫家口を出す――一體現今の展覽會の缺點とは何を云のですか漠然と責めないで其組織の短所を指摘して戴き度い、
批評家――では云いませう先づ第一、何處の展覽會でも行つて見給へ、美い作も悪い作も凡庸なのも只雜然と列べてあつて其間何の秩序も連絡もない上に、其數と云ふたら會場に溢れる位である、是が、展覧會の本來の性質を解して居るものゝ所置と云へませうか、畫家にして其責任と事務を相當に自覺して居るなら斯様な、塵溜に出品する氣になれない筈です
青年謁家――而し畫家は其作品を紹介しやうとする爲には君の所謂塵溜へでも出品しなければならないのです、若し斯様に畫家が作品をすっかり網羅するとせば勢ひ塵溜の樣になるのは詮方ありません、
展覽會係撥を合し、――其通り、展覽會が害のあることを結局免れられないのなら、小さい缺點が、澤山あるのは當り前です、其秩序は組織上已むを得ぬ結果で君とて之を如何する事も出來ないでしやう
批評家――其は賛成出來ない、けれども話しをはつきりさす爲めに聞くがね、美術展覽會の目的とは何だい
青年畫家――目的つて解つてるではないか畫家が作品を公衆に見せて買手と接近する機會を作るのぢやないか、畫家の名前の揚るも揚らぬも屠覽會に依るのだ、批評家――僕も其意見と同じだ、然し畫が一杯で溢れそうな會場へ作品を出して而も、其畫は非常に不利な状態に陳列されて居て其で其作者が名譽を拍せると君には思へるか、會に畫が多過ぎると其出陳の畫は盡く價値を失ふてしまう、實につ、まらぬものに見られてしまう、出品數の多い當然の結果として、畫の陳列が、ほんの場所ふさげとなるのは其陳列の方法等に考が至るだらうか、作品が其特色を發輝する事の出來る餘裕も何もあつたものでない、結局離して見なければならない作をゴチヤゴチヤに併べるに過ぎなくなる
青年畫家、不平さうに、其は其通りですが、展覽會があればこそ畫が賣れる、實際列べる方法が、作品に如何に不利な場合でも展覽會あればこそ買手が付くのです
批評家――それは實際?それは不思議だなあ、僕が云ふて居る様な展覽會は實に畫を賣るのは、悪い所です――是は少し考へて見れば變でも何でもない、例へば、商人が其店を飾る時其商品の見際に少しも注意を拂はなければ破産する事受合です、展覽會が一の店屋とするならば其商品たる畫は其特色を發輝して注意と興昧を引付ける樣な陳べ方をしたければ僞です、ゴチヤゴチャと畫計り多くあつては特色のか何れも目に入りやしない展覽會係――畫が見えなくては畫の賣約や、畫家の名前所ではありませんね
青年畫家――勿論です、作品が見えないのでは困る、しかし出品したくてうづうづして居る畫家が、澤山居るのも、陳列畫の多過ぎるのを止めるには何如していゝてしやう、畫家が多ければ出品畫のいのも無理はないでしやう、
批評家――左様でもない、ねえ、出品畫の標準を高めなさい、選擇を嚴密にして、其少數の畫を注意して陳べ、特色を發揮する餘を與へ給へ、美術自身の爲めを計り給へ、どの畫家の畫も出品させて八方美人にならう等としてはいけない、此が、現今の展覽會の缺點を癒す、最良の道です、