友へ

南のわかもの
『みづゑ』第八十三
明治45年1月3日

 K君 私は此頃いろんな事を考ヘます。何んだか考へずにはいられぬゃうな心持がします。考ヘれば考へる程いろんな問題が出來てきて、仕舞には壓迫されるやうな苦痛を感じます。でそれから逃れる爲につまらぬ遊戯をします。其恥に淋しくもの足りなくなつて來て又ものを考へるやうになるのです。其考へた事はつまらぬ事かも知れませんが、それでも私の眞面目に考へた事なのです。
 私は技巧と云ふものを尊重します。技巧と云ふもの無しには繪は描けないかと思ひます。然し今私の云はうとする所は、昔から云ふ單なる筆つがひと云ふやうなものではありません。無智な人々を欺く爲に筆の先でごまかす事ではありません。作家が其主觀を繪と云ふ形式――其他の藝術でも同じかと思ひますが、今は繪ばかりに就いて云ひます――で表はそうとする時、畫布の上に繪具を着けるのに、其作家の心のふるヘを其まゝに傳へやうとする事なのです。そうした場合に其形式は即ち内容なのでは無いでしようか。私はそう云ふ意味で技巧に腑心したいと思ひます。
 或日、Y君の家てY君が繪を描くのを見てゐました。それはもやの深いある寒い夕方でした。西の空にはローズ色が流れ、其空と融け合つて淡い鼠に丘が見へてゐて、それから手前の電車道までは、立ならぶ家々が灰色に模糊としてゐました。そして入日の名殘が川岸の二階屋の新らしい雨戸に赤く消ヘ殘り、電車道を通る人は默して急ぎ足に行きます。Y君は畫布の上にそれ等を取入れやうとしてゐたのです。
 渠れは色を付け始めました。
 其色は私の期待に背き。又Y君が平常の主張に反しれコンヴエンシヨナルなものでした。Y君は此頃僞らぬ自身の感情を描くのだと云つて居ります。その人が今描きつゝあるコンヴエンショナルな色――渠の畫布には、空と遠景の淡いなつかしさは丸でぶちこわされて。空は黄色に暉き、丘はコバルト色に強く空を限つてゐました。そしてあるか無きかの川端の冬枯れかゝつた柳の葉さヘ、綠色にはつきりと寫されました。私は其れを見てゐながら習慣の根強い力を恐れました。因習を脱すると云ふ事はなか々々れやすい仕專ぢやありませんねえ。
 私は『STUDIO』や外國の展覽會のカタログなどを見る事はあんまり好きぢやありません。それは私とは沒交渉な繪が多くあるからなのです。然しそれ等の繪を見て感心した事があります。それは外國人の繪が、いかなるやり方のものにしろ、つきつめた所までやつてある樣に見える事です。日本の畫家の描いた繪には不徹底な、中途半端な、自己を欺むいたやうなものが、これまで随分多かつたではありませんか、私達は自分の心から、そんな不眞面目な分子を排斥せねばなりません。
 私の知人で日本畫をやつてゐるのがあります。私が或要事で其家を訪ねた時。渠は私に今描きかけてゐると云ふ繪を見せました。それは「草紙洗の小町」とか云ふのだそうで、折紙のやうな布の中に、人形のやうな女の首を繪扇とがはさまつてゐて、其脇に渠れが水鉢だと説明した、いやに九味を見せた黒い火鉢のやうなものゝある繪でした。其繪に就いて渠れはいろいろの事を話しました。第一それは新らしい試みだと云ひました。私達の心には何の感動をも起さない、其細引の炉うな輪廓の線がそれだと云ひました。其輪廓に區切られて、色板をならべたやうに平面に塗られた感じの惡い色のいろいろもそれだと云ひました。そして其着物の模樣は大いに參考書をしらべたのであつて其模樣の表の方は金箔を置き裏からすけて見ヘるのは金粉をぬるのだと云ひました。
 又渠の先生は、渠がそふ云ふ新らしい試みをする事を嬉んでくれないと云ひました。それでゐて先生は自分が展覽會などに出す畫はやはり同じやうなやり方をするのだそうです。そして他人から聞かれると、一寸いたづらをやりましたと云ふ風な答をして、世評に對する責任を逃れやうとすると云つてひどく憤慨してゐました。
 私は草紙洗の小町と云ふ故事さへ渠の説明をもとめねば知らぬ程の馬鹿者ですが。どうも渠の思想が新らしいとも。又其壁紙の模樣のやうな繪が新らしい試みだとも思ヘません。寧ろ私が五年も前に考へた事より淺墓な事かと考ヘます。
 ですが此頃の日本畫家で新らしい試みをやると云ふ人々の中で、横山大觀氏と外二三氏を除いたら、多方はこんな風でわないでしようか。いや日本畫家ばかりではありません、お手近な所にもそんな人達が澤山居わしないでしようか。
 時計が十二時十五分前を指してゐます。私はもつといろいろ書きたく思つて居りましたが眼はさべてゐても頭が亂れます。
 蟀谷が痛くなりました。きらば又次にしませう。(十二月九日夜)

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