手前味噌

歳湯木
『みづゑ』第八十三
明治45年1月3日

 我々アマチュアの水彩畫作品にコンミツシヨン付の批判評價は禁物である。面白づくで勞作するのであるから多少畫としては缺鮎批難の打處はあるに相違ないが、その氣品といふことを買つて戴きたい。赤裸々なら自然美と作者の人格が表現されてこそ立派なものであろう。私は畫家でないから下手ですの拙いもんですとの御世辭や遠慮は寸毫もいらぬ、斯道に造詣深いことを見て戴けばよいのである。どしどし黒人畫家をいぢめてやる程氣のよいものはない、先方も一生懸命此方も頗る眞面目である、こうなると面白づくもどうのこうのと云ふ問題はそつちのけにして、せつせと自然の肖像畫を抜きとつて終ふ。この觀念ほど我々アマチュアにとつて幸福な事はあつたらない。
 我々は一枚のスケツチをやれば一枚仕上げねば氣が濟まぬ樣に思ふ、高價なワツトマンに對しても張込んだニユーマン製繪具に對しても申譯がない樣に思はれる。この濟まない事實が我々アマチユアにとりて、なかなか金銭に替へられぬもので、苦しい思ひが他の職業とはいささか趣を異にした觀がある。
 アマチユアが展覽會を觀ると自分の嗜好にまかせて作品を拜見して居る、時とすると早速その日の午後からスケツチ箱を荷つて、彼麼空氣の風景はないか構圖はないかと徒勞することもある。兎に角、得手勝手すぎるのは困つたもので、自己衷心の高い草でもないのに、色彩が乏しいの、構圖が惡いの、少し毛色が異ヘば私にどうもわからむ、と畫家の苦心はどこにあるやらそんな考へもなく、早速隨感直入的に言つてのける、甚だしいのは作者を踏みつける、誰々は弟子や塾生より下手だよなどは平氣なもので、自分の片足とられて居るのに自迷語をつらねて居る、藥に飲んで毒にするのはアマチユアの繪畫規賞法だとさ。
 何時までたつても時の力の偉大なるを知りつつ上達せないのは種々風説にあるごとく、自己を見出さぬためと、態度の不眞面目等より出來するものであつて、自己力量の不充分に眼が肥え過ぎたりするからであつて、一つは安定するからであらうと思はれる、自分はアマチユアであるから等はよく耳にする言葉である、アマユチアでも上手の境域に達する方がよい、何をやつても眞摯なのがよいと思ふ。これが我々の美術に對しても貴重なる格言である。
 私一個人としての作品は、昨今の境遇がしからしめる故か、頭が理論的、情熱的、哲理的、に動いて頗る冷靜になつたのはよいが、ふくらなる感情生活の一部分に眼を喜ばし頭の靜養をする餘地たるべき繪畫そのものに就て、かなしい生の執着にとらはれて終つて幾分にも幼い時分の蜜蜂の樣な氣分も玉蟲のやううに甘い歡樂の少年時代も過ぎ去らうとして青年時代の枯談に捉はれやうとする。そこで繪畫――美術に離れむとして別れることの出來ない愛着やみがたい分子はあつても、私の作品は頗る過去二三年よりも拙劣となつて終つて、デツサンの必要は二三年もやれば物の形だけでも寫せるやうになるだらう位に廢退して終った。頭兀げても心配するなとは近頃の流行唄の何んて間がいいんでしやうにある如く、これでも帽子冠れば立派な紳士に見えるのは心うれしいが私は私の審美眼によりて永久私の作品も出來ることと樂觀して居る。水彩畫は私の娯樂的分子の多い高貴な貴族生活よりも充實して居るのである。

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