あこがれ記

片葉子
『みづゑ』第八十三
明治45年1月3日

○萬朝報なら文藝消息、讀賣新聞ならよみうり抄。帶封を切る手の動作をもどかしくわが飢ゑた目はすぐそこに落ちて行くのである。如何にもこの小さい活字の狭い範圍を歸るべき天國の樣に思つてゐるのかしら。實に蘆花が歩して永遠を思ふに足るといつたわが家の富を思はずには居られない。
○ある新聞紙は某氏が渡歐の報を吾に齎した。この報に接した吾は同時にさる美術家通によつて氏の年齒が吾に伯仲であることまでも併せ知り得た。そして一種の恥しき反抗を感得した。
 噫かくして吾といふ吾は花が咲かないで枯れてしまうのではあるまいかと。
 〇如何なる天秤を使用したなら自己の天才を量り得るだらうか。學生時代の甲の符號や先生の稱讃といふ様なものが果して信頼すべきものだらうか。ナシヨナルのウェストの記事とわが母の肖像の失敗との比較に於て何だかおぼつかない感じがするではないか。
○山に趣味を持ってゐるのやれ人體が面白いのとよく目にいひたがる。心にもいぐらか思つてるらしい。然し繪が出來て見るとそれはいつもいつも海の繪ばかりではないか。やはり吾は海の人だつた。人やといつたのはあれは他人の聲だつた。さまよヘる趣味といふ鏡に反映した影はあまり面白くもないではない、かと思つて見た。
○定見なき趣昧は畫面に自我の光をきらめかすことは出來まい。人が紫といへばば紫。外光といへば何も彼も外光。かかる不定見が常に眞を僞るのではあるまいか。僞の中に何が美てある。吾にはだれがどういつても畫布の上の眞はすぐに美であるとがう思ふ。
○美の影を捕ヘようとするものはあながちに美術家のみでもあるまい。美を愛するといふ所謂審美的情操は人間の本能的一徴證ではゐるまいか。
○吾はその美をあらゆる所に發見し得る人を美術家とするのである。美は人間到所にこれあるのである。わが眞即是美の見解からして眞なる所にはいつも美の影を潜めてをるべきである。
 その影を捕へなければ藝術は遂にその意味を有しないのである。
○虚飾は美の反對で醜である。うまさうな言いふて尻の皮のはげるのと。天眞燗漫にしていつわらぬのと何れをとるか。虚飾にだまされて醜と感じない底の人はとても美術家たり得るの要素を具備しないのである。
○日本畫のすべつこいのばかり見なれた人にわが繪を見せるとわけもなく批難する。すべつこい線でなけりややはり承知が出來ないと見える。遠近の苦心や光線の經營には一寸も心は留めないで影のマッスの美を勿體ない兒戯だなんてひやかしていつた。
○その人が去つてやつと胸をなで下して、あの人は可愛相だなと思つた。するとどこかの角の方で勝利の鬨聲が淡い調子に振亂した。
○人は平凡だと氣にも留めないで而も我には大なる意味を有してをる場合が甞て幾度も有り得た。吾は常に平凡をあさつて平凡の中に平凡を求めてゐるのである。そして求め得たる平凡をわが趣味と思つてゐる。
 〇一日に二度つつ歩む往還の左右の風物は皆是平凡である。朝日を受ける平凡、夕日を浴びる平凡、さては雨の日風の日の平凡。かかる平凡の變化は常にわが視覺を通じてわが腦裡に一の波紋を生ぜしめずには置かない。か樣な波紋を受取り得た度毎に人知らぬこの幸福を雀躍せずには居られない。

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