素人の繪畫鑑賞と云ふ事

歳湯木
『みづゑ』第八十三
明治45年1月3日

 私の友人には『氣分』と云ふ事を非常に大切がる人があり、普遍的の感情から一歩脱却した所に自分の觀念を置て超然たる人があり、『官能』と云ふ事を尊重して居るものもある。
 要するに個人としての理論より割愛した趣味と云ふ事はその人の天分如何に係らず、或點までは向上進歩發展されてゆくもので遲純と敏恬との差異こそあるだけであつて見れば文明の人間は大低同程度の腦力と努力とをもつたものに過ぎないと思はれる。社會政策の根據より推論して社會は總ての事秩序よりなるものとも受けとれるし、無闇に偉人や傑物を出さないが正比例して聖人タイプの君子が餘計世間に出現して共同的生活の理想社會を形勢するものと考へらる。
 以上は普通人の感情及び實行生活の實現とも見るべき英斷であつて、茲に此等、普通人の觀照の態度が直接に間接に藝術となつて、その智能の展開は、人生の見解の如何により、自己そのものの胸裡に輝く抱負の如何により、藝術は實社會の商工農の發達により社會の改良とし文明の開拓につれ超然たる段梯にあつて然も此等と密接なる關係は言を待たずである。
 此の理論を究めてゆけば物質界の理論ともならう、學科の輿論ともならうが、単に此の場合は斯くの如きものなりとして、實行生活の俗惡的なるものより藝術生活の情愛的なる分子を加味された極普遍的な人間の一團として、之を命名して曰く、素人の繪畫鑑賞と云ふ事を斯くの如き一般的の立脚として、其根源より行爲の標準を明白にすることは一面不可能なるも、眞理も一面には含有されて居ると信じられる。
 繪畫そのものには福食文藝家として立派な專門的な所信のある人もあらう、無趣味な職業柄であり乍ら頗る情慾的な鋭い感傷を持つた勲狂詩人も無いとは限られない。
 之等の水平線外の人々は例外として、水平線に凝集し來る總てのものども、普通人としての多少の凸凹こそあれ、畑の如き押し並べて終へぱ平面な耕地となるが如き見界よりして、繪畫の鑑賞をすると云ふ事は、各個人が智識の程度は無差別なれども、思想と行爲の標準は時代により時代の人により、時により場合により、素人の繪畫鑑賞は要求と云ふ事、自己生活の慰籍たらずとも境遇上から、又は家庭的からとか、繪畫鑑賞に趣くのかかる推定からせば、繪畫鑑賞は各個人個別の色調により個別の情緒より、自己の才分により自己の製作品より、又は學理上よりして繪畫鑑賞するにとどまるのであつて、見れば、私等は常に斯道に特別の野心もなく、榮達もなく、普通世間の挨拶對話に於ける平易にして然も社交上手になりたがる、賢い方法を講究するのが素人の繪畫鑑賞は眞實であると思はれる。
 要するに、之を以て汎く繪畫を愛説せょと論及するのでなく境遇上、場合によつて素人の素人臭いき專門家より批評を受けるみぢめさよりも素人は素人の見解と態度と所信とさへあれば充分でないか。
 私等が茲で『素人』とは如上の意味で、專門家に對する素人とは問題外である。であるからして、畫をものする人もあるだらう、ただ繪畫が好きであるとする人もあらう、樣々であって、絶對に畫筆を持つことのない人もある。
 かかる素人の立脚地より更に言葉を足せば、あの可愛い少年や少女の?ぺたをふるらかにしてポツペンを吹く態度や動作に見出たる懷かしい心持をもつて、幼な時代の筆かな年頃の氣になつた『愛』の時代の生活をつづけたいものだ、假令行爲はさなくとも思想の古朽せんとする刹那の氣分は斯くありれいものだ更に、あのマンドリンの音調の如く。神經の焦々とする黄なる響を捉へたいものだ。
 論じつめると、セニチメタルな七ンスにより多く捉はれた觀念を持つて居るのもよからうと思はる、ローマンチックやクラシックには全然絶對的に拘束されたくない。
 みづゑ八十二號に横濱のSKKと云へる人が素人の繪畫鑑賞し就て狭義な見地と、美術そのものに捧身的になる人々の將來論とも見るべき事を定規的に述べられた所信であつた。甚だ困憊したから私の所信を述べたまでである。學校がお休みになつれら纒つた繪畫鑑賞論を具體的に申上げたい、素人と云ふ事の社會上の程度問題をも語りたい、併せて日本社會の學究的に參考になる實例を擧げて生活状態等を論じたい、猶、日本風景と旅の問題を一夕話としたい、之等は特に水彩畫線上の感興問題としたいことを言つて置く

この記事をPDFで見る