景福宮の春(前承)

健堂生
『みづゑ』第八十三
明治45年1月3日

 歩を左側の小門に轉じ、入れば一大樓あり、之れ則ち慶會樓にして、京有數の遺物なり、石橋を渡り樓内に入れば、周圍池、水右方小丘を作り、二三樹あり、此樓二層にして五十有餘、長さ凡そ二間周圍八尺の大石柱、予想ふ斯る建物を見ざる事を、天井好く彩色を施し美亦言ずもがな、然れども樓上を見るを得ざりき、池中蓮の枯葉水中に垂れ小魚春の暖きに群り戯るを見る、附近迄芝生然して挑樹あれど開花期少し早くして、背後の松石垣を拔きて黄葉を彩り幹赤し、予一枚の寫生をなし樓を辭す、予此の樓を見る度深く想へを乙未の變に走らす、住時國王は難を露公使館に逃れたれど、時の皇妃閔妃は此樓に於て官女と共に戯れ中捕はれ、白丹山下綠松の邊音無く聲無き處に於て殺されたるを、予樓を出で崩垣の側道を辿り、後方廣地に出づ、彼所松林あり、空地芝雜草茂生す、所々崩破の小舎を見る、閔妃の殺されし處に到る、一小舎あり松林密生し日暗きを覺ゆ、予彼半島の女傑を想ふて哀愁の念起らざるを得ざりき、小舎を出で右道せば醉香亭あり、架橋池中樓あり蓮多くして夏期の滿開期を思はしむ、
 歸路道變へて左側を見しに、早や十數棟の家屋其の蔭ぞなく、今時花園と化す、昨春の頃は好く家屋存し舊官女の舎内に縫取等を行ひ、生計を保ちたれど、今は皆彼等も解散して唯愁寞春草生綠にもあらざる如く、白★山の綠松は永ヘに茂れど此宮亦永へあるや否(完)

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