西洋畫の觀方
大下藤次郎オオシタトウジロウ(1870-1911) 作者一覧へ
故大下藤次郎
『みづゑ』第八十五
明治45年3月3日
(本篇は大下君が生存中、予の雜誌『文學界』の爲に、該誌の速記者に口授せられしもの、故人を忍ばんが爲に、今之を譯出して、君の紀念の『みづゑ』に寄す。峯間庶水識す。)近頃繪畫の展覽會が、大分盛んになり、殊に西洋畫に就いては、彼の邊鄙な地方までも、之を觀る機會が多くなるやうになつた。無論地方には、展覽會といふやうなものは、さう度々はないが、智識の普及に連れて雜誌がどんどん地方に這入る。其の雜誌の口繪が、多く西洋風の繪であるので、それで地方に居つても、西洋畫に目を觸れる機會が多いのである。此れ等の影響でもあらうが、地方の青年側では、水彩畫を弄ふものが段々に多くなつて來て、私共の發行して居る雜誌「みづゑ」は、大分此の方面に歡迎されて居る。
水彩畫は、無論西洋畫に相違ないが、併し、西洋畫の本色は寧ろ油繪にあるので、西洋の方では、油繪が素晴らしい勢力を有つて、居つて、水彩畫の方はそれ程ではない、處が、日本は之に反して、油繪も有るけれども、水彩畫が一番勢力を有つて居る。此れは何ういふ譯かといヘば、水彩畫は同じ西洋畫であるけれども、油繪よりか比較的日本畫に近いので、自然日本人の趣味に合ふ所が有ろ爲であらうと思ふ。故に嚴格の意味から云へば、日本人の目に多く觸れる西洋畫は、純粹の西洋畫ではなくして、半ば日本化した西洋畫とも云ひ得るのである。實際又雜誌の口繪などは、西洋風ではあるものゝ、純粹の西洋風といふことは出來ない。併し、純粹・不純粹は且らく措いて、西洋風の繪が、多く日本人の目に觸れるやうになつて來れことは事實である。目處で、さういふやうに、西洋畫が盛んに、地方人の目にも觸れる機會が多くなつて來れが、併し、之を觀る地方人は、何うも西洋畫は我々に分らぬといふ人が多い。如何にも此れは尤もな譯で、なまじつか分るといふ人が怪しいので、分らぬといふ人は實際正直なのである。何故といヘば、此の西洋畫を觀る人は、從來皆日本畫を見慣れて居るので、詰り其の日本畫を標準として、觀るから分らぬのである。日本畫の立場を離れて、西洋畫の立場を了解して觀れば、分らぬ筈は無いのであるが、目の習慣は致方の無いもので、西洋畫が分らぬといふのは、全く無理のない正直な告白である。
日本畫は古人の粉本を土臺にして、それに對して筆力が何うであるとか、氣韻が何うであるとか、といふ觀方をするが、西洋畫は直に「自然」に就いて、その心持が能く現はれて居るとか、此れは何を畫いて居るとか、といふやうに觀る。ざつと言ヘば、日本畫と西洋畫とは、斯ういふ風に觀方が違ふが、例ヘば、其の何を畫いてあるか、何ういふ心持を畫いてあるかゞ、分るにしても、夫れだけでは矢張西洋畫の善惡が、分らぬ。其の善惡を看るには、別にさういふ方の、敎育を要するのである。
然らば、何ういふ風の繪が善いかといヘば、色々の條件が有るけれども、先づ畫いれものが其の心持を能く現して居るなら、一番善いとしなければならぬ。其の心持が寫眞のやうに寫つて居るなら宜いのである。例ヘば、一人の娘を畫くなら、其の愛度氣ない態度を能く現はすとか、或は櫻の繪なら、其の爛?とした趣が能く出て居れば、これは何れも善い繪である。小供を畫いて老人染み、櫻を畫いて冬の景色のやうに見ヘるのでは不可ない。此の感じが先づ標準となるのである。細かく分けてお話をすれば際限が無いが、概括して言ヘば、形に無理が無く、色の調和が能く出來て居るのが、次に來る必要條件である。調和といふことは、音樂でいふと、調子外れにならないやうに、所謂宮商が能く和諧することを要するのである。さういふやうな處に注意して、それ等の條件が能く具はつて居るなら、善い畫と謂つて差支無いと思ふ。先づそんな標準で繪を見れならば、實際は其の範圍内で、色々の區別が有るけれども、大して間違が無からうと思ふ。
此の外、西洋畫を觀るに當つて、距離といふことが必要である。西洋畫は、普通對角線の二倍の處で見るやうに、其の標準で大概出來て居る。故に、それ以上に離れて觀ても不可ず、夫れ以内に近寄つて觀ても不可ないのである。繪が餘り近く目に這入つては、言はゞあらが見へるといふやうな譯で、眞の繪の見所を失ふことになる。さういふやうな標準から、室の適當な所に繪を掛けて、室の眞中の椅子から觀られるやうにするが宜い。若し非常に大きな繪であるならば、それを室内に掛ける時には、座つて居るにも椅子に掛けるにも、觀る人の目と平面になるならば宜い。必ずしも日本の部屋であるからといつて、なげしの上に掛けなければならぬといふ譯は無い。釣額にしても宜いし、或は座席に應じて、即ち椅子の座布團との工合に依つて、其の繪を屈めても仰向けても宜い。此の掛方と距離とに依つて、繪が非常に觀善くもなれば、觀惡くゝもなるから、此の點は餘程注意が肝要である。
それから、保存のことも、次手にお話して置かう。近頃西洋畫を愛する人が多くなつて、大變應接間などに掛けて置くが、それに就いては保存の必要がある。日本畫であると、一週間位で、掛更へるのが普通であるから、別に言ふことも要らぬが、西洋畫になると、大概長く晒されて居るやうである。そこで、保存の方法が肝要になつて來るのである。併し、單に保存の側から云へば、西洋畫は日本畫に比較して仕易い方である。西洋畫は倉に仕舞つて置いても、濕氣を受けるだけであるが、日本畫は、其の外に虫が附くといふ憂が有る。そこで、西洋畫の保存には、濕氣を防ぐといふことが、第二の要點で、さうするには、何ういふ注意が宜いかと言ヘば、油繪の方は、ワニスを繪の上に引くのが當前である。硝子を張るのも惡くはない。水彩畫やパステルの方は、硝子を張るのが普通である。それで先づ大概保存されることになつて居る。濕氣の外には、直接日光を受けるとか、即ち強い光線に觸れるといふやうなことも、害にはなるが、繪は大概室内に掛けてあつて、其の害を受ける機會は、滅多に無いから、此れは別に注意する迄も有るまい。