續 三脚物語(一)

鵜澤四丁ウザワシテイ(1869-1944) 作者一覧へ

鵜澤四丁
『みづゑ』第八十五
明治45年3月3日

○大下先生の三脚子は、前々種々の事を達者に話されて、なかなか面白く拝見して居りましたが僕は主人がアマーチユアであるから、大抵の日は書齋の側の椽側の上の棚ヘ、畫架だの洋傘だの、ワットマン入のブリキ鑵等と同居して、めつたに日の目も見ずに、くすぶりかへつて居りますから、別に振つた珍妙な話はたんと持合せがないのですが、それでも月に一二度位は氣まぐれに取卸されて、近所の山や川へ連れて行かれることが、ありますが、こんな時には實に嬉しくて堪らない位です。生意氣なやうですが、第一空氣が新鮮です。
○エヘン、前置きばかり長たらしく憚りさまですが、順序として僕の生立ちかから、お話しすることに致します。
○大下先生の三脚子も随分古株の方でした。何でも三脚の脚が、携帶に重いといふので、肉をそがれ、骨を削られるといふ荒療治をされて居ました。そして三脚の一本には少さい穴を明けられて、それへ麻繩を通して、寫生に行く時に、先生の腰にぶらさげられて居ましたのを、好く見受けました。それに革は濠洲ヘ渡航されたときに、軍艦中で、鼠にかじられたとかで、三角の一角が、妙にいぐれて居ました。それでも、大下先生のは本職の手になつたものですが、僕は主人お手製と來て居るから、餘り人中ヘ威張つては出られないのです。ましてやお饒舌などはされた義理でもないですが、近頃は無駄話が流行るやうですから、僕も尻馬に乘つて、少しばかり饒舌らして貰ふ事にしました。
○もう十年も前の事と思ひますが、柏木から大久保あたりヘ行くと、立派な紳士風をしれ人が、水繪か油繪の箱を肩にして、三脚を携へて、そここゝと歩いて居る。別段繪を描くでもない樣子で歸つて仕舞ふ。こんなのを折々見受けると、三宅先生が僕の主人に話して笑つて居るのを聞いたことがありましたが、妙な道樂があつたものだと思ひました。こんな人の三脚は、至極氣樂なもので、暢氣でよからうと、主人の重い體を脊負つて立つときには、いつも思出します。
○主人の體量が重いために、僕の脚は二度も折れました。いや洒落ぢやありませんよ。ほんとに脚の骨が折れたのですよ。一度は吉野村の梅を寫生に出掛けられて、水邊で主人が箱を開いて、例の通り膝の上に乗せて、丁度繪が半ば頃になつたと思ふ時、何うしたはづみか、僕の脚が、金物の穴の處から、みりみりぽきんと折れたから、堪らない、主人が後へ倒れる。箱や繪具箱、筆、筆洗等が算を亂してあたりへぶッちらかる。自分は脚が折れた痛さを忘れて、主人のこの樣を見て、吹出さずには居られませんでした。二度目には多摩川の川原の石の上ヘ、据ゑられた時でした。一方の石に蹈張って居れ脚を、主人が尻をひれつたものだから、みりゝと來た。前例があるから、主人が早く氣が附いて、この時にはひつくりかへらずに、濟みましたが。
 重ね重ねの痛手を受けたには、實に泣きたい位でした。
○大下先生はスケツチが了つて、歸りがけには必ず三脚子の脚の先きの泥を水溜りを見付けては、革の處を持つて、かばかばと洗つて、一振り二た振り、振廻はして水を切るのが癖のやうにされる。あの時は、一時目が廻はるが、後には脚が淸潔になつて、氣持が可いと、先生の三脚子が話したことを覺えて居ます。
 僕の主人と來ては、時に大下先生と同伴のときは、それを眞似られて、脚を洗つてくれることもあるが、大抵は脚に泥がつけば、あたりの枯草か何かでひつこすつて、そのまゝ干かすのを例として居る。甚しいときは、あたりの木へ脚を叩付けて、泥を落す。なかなか無情に出來上つて居ます。それに付て、思出した事があります。山の奥や、片田舎では、泥足をそのまゝ圍燈裡の中へ蹈込んで、榾火にあたりながら、泥を干かして、それを手でぱたぱたとたゝいて、座敷きへ上がる。これを火洗足といつて居うと、主人が畫を描きながら、友人に話して居るのを聞いたことがありました。僕の脚も、この火洗足と仝じたと、獨りでくすくす笑ったことがありました。
○大下先生が青梅に居られた時でした。その頃青梅には、アマーチユアが三四人ありました。多摩川と山とを越して、肝要村といふ處へ、冬の寒い日にお伴をした事がありました。汗をたくたく垂らして、漸く峠を越して村ヘ着くと、ぽつりぽつりと雨が降つて來た。人の檐下を借りて、繪になる處もなし。とうとう杉山の中へ這入つて、幸に杉の枯枝が、澤山あつたので、それで焚火を初めた。てんでんに最初は繪箱を開いて、繪を描いて居たが、寒くて堪らないので、繪が干かなくて、困るのなんのと、種々の口實をつけては、火の側に寄つて暖を取る。終には皆僕等を焚火の側ヘ据ゑて、火をどんどん焚く。ぐるりと取巻いた樣は宛ら山賊でゆもあるかのやうだと、主人がいつて居ました。其内に、甘黨と辛黨とが、近所の賣屋で大福餅と酒とを買つて來てやり初めた。これではいよいよ山賊だと、皆主人等が笑つて居ました。
○曾てアマーチユアの瀧島寛水氏といふがあつて、多摩川の向ふの二の宮といふ處に大きな池がある。一度寫生に行きましやうといふ話が、主人等の間に成立つた、青梅の近所には池が少いから、それは珍らしい。是非行かうと、或る日曜日に、各辨當持ちで出掛けられた。時は丁度秋で、稻が實つて黄金色になつて居る。何でも池は森の側にあるといふ話だから、水が深くて、森の一部が深く池に映つて居るに違ひないなどゝ、主人等が話して行かれる。實をいふと、池等の寫生の御伴は、うんざりする。池や湖水の畔は、まるでじめじめして居て、じつと立つて居ると、脚の下から、だんだん水が染みて來て、脚が二三寸もめりこむ、その氣味の悪るさつれらありやしない。主人等の話を小耳に夾んで、ぶるぶるもので、お伴をして行きました。
 寛水子は、銀行員で、この二の宮の支店を見廻り方々、行くといふので、先つその銀行支店ヘ休む。帳簿等の整理をして、それから池へ行かうと出掛けられた。全體池は何處にあるですかと、主人が寛水氏に聞くと、實は僕もまだ行つたことはないんだが、たしかあの松山の下だらう。三四丁田甫を行くと、果しで松山がある。その下に少しの水溜位の池らしいものがあつむ。
 何だこれはと、主人は呆れる。他の主人等も、これじや繪にも何にもならないとこぼす。寛水氏頭を掻いて、こんな筈じやなかつたにと恐縮する。皆々失望落膽、それから秋川ヘ出て、寫生をして歸られた事がありました。お蔭樣で例のじめじめにお目に掛らず濟みました。其歸りには寛水氏、主人等にさんざんひやかされて、正直な寛水氏は申譯の仕通し。其後は何でも、少さいものを二の宮の池のやうだといふ言葉が、大分主人等の間に流行した事でした。それから池で思ひ出しましたが、汐舟といふ處に池があつて、睡蓮が咲いて居ますが、主人と大下先生が、一二度こゝへ行かれて、繪を描かれたことがありました。その睡蓮を、主人が繪ハカキに描いたのを、大下先生のアルバムに挿まれてありましたそうでした。青梅に講習會のありました時に、是非一度、寫生に行きたいと生徒諸氏の望みのまゝに、大下先生が行かれたさうでした。するとその睡蓮たるや、非常に少さなものであつた。繪ハカキの花の大きさは、あまりに誇大に過きたといふので、生徒諸氏が、驚きましたねの百萬遍を食ふて、主人が大いに閉口して、申譯がありませんと詫びました。
 それでも二の宮の池よりは增しでしやうが、と大下先生と、笑はれた事がありました。《つゞく》

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