大下藤次郎氏の逸事(上)

長野菊次郎
『みづゑ』第八十五
明治45年3月3日

 余が始めて大下君を識りたるは、明治三十年六月、文部省の敎員検定試驗に應ぜん爲め、上京した時であつた。余は殆んど田舎に生活して、東都の空氣に觸れた事は、今日まで僅か一年半に過ぎないから、其頃東京に、下宿の世話をも頼むべき程の親しき文は、一人も持たなかつたのである。然るに其時福岡中學校の圖畫の敎師をして居た、早川銈太郎氏は、大下君や眞野君の親友で、又余の親友であつたので、余の爲に在京中一切の事を大下君に依頼して呉れた。大下君の人格につきては、豫て早川君より詳細に聞いて居たので、出發前より既に一人の親友を東都に得れる心地して、少しの躊躇なく、出發することが出來た。東京に着くや、直に大下君の許を訪ふた、これが其月の三日であつた、此時氏は本郷の追分町に下宿生活をせられた時であつたが、余の到着時日が略知れて居たので、既に其家の一室が余の爲めに明けてあつたのは、實に嬉しかつたのである。臍の緒切つてより初めて、東京の地を踏んだ田舎の武骨漢に對し、大下君の最初の感想が果して如何であつたかを知らぬが、余には一見舊知已の感があつた、氏の室と余の室とは、二階と下との隔てはあつたが、心に何等の隔てのあるとも思はない余は、大下君の爲には、随分迷惑であつたかも知れぬが、隙さヘあれば、同氏の室に到りて、肉筆の繪や、名家の粉本や、其他美術に關する色々のものを見る事を得た。余は特別に繪畫を學んだことはないが、併し幼少より、繪畫に對しては可なり趣味を持つて居たので、大下君の談話は、余に對して非常の興味を與ヘれのである、特に田舎に於て、名畫や肉筆等に縁遠き余には、氏の一室が全く小美術館の樣に思はれた。其折余が舎弟に送つた書状の一部に、次の文句がある。
 ‥‥晩餐後などは、必ず大下君の室に赴きて、快談興話に夜を更かし、又仝君のものせられたる水彩畫を借り來りては、無暗矢鱈に洋紙の片に、繪具を塗り付け、隨て既に二回も紙屋へ通ひ、水彩畫も十葉余り出來申候。
 此時まで大下君は、まだ油繪にも手を下されて居た樣に思ふが、併し同氏の意思は、既に水彩畫專門に決して居た事は明であつて、滞在中、水彩にて人體モデル寫生を試みられた事もあつた。
 此際三宅克己氏が、洋行せらるゝので、見送りに横濱に行かれた、其折氏は横濱の或商館?に、秘藏せるアルフレツド、パルソン氏の水彩畫を一見せられたと見え、歸京後余に向ひ、パルソンの繪に對しては、實に失望といはんより、寧ろ絶望せざるを得ない、自分は如何に奮勵するも、到底パルソンの位置に到達することは、不可能であると思ふと言はれた。氏が輕薄なる畫風を排して、眞面目なる寫生を努め、一徒に印象派や外光派等の後を追はずして、孰れかと云へば英國風の着實なる畫風を、潜心研鑚せられしは、バルソンの畫が少からぬ印象を與ヘた事と思はるゝ。在京中、共に堀切より四つ木、龜井戸方面を逍遥した事もあつた、眞野君を訪問した事もあつたが、かゝる散歩の際、余は吾妻の森の新緑滴るゝが如き光景を見て、不圖歸郷後は、折々寫生を試みるも面白からんと言った、此時氏は特更に言葉を更めて、世往々副業の爲に、本業を忘るゝものあれば、此邊は大に注意ありたしと言はれた、余が今日まで特更に野外寫生を試みないのは、此折の一言が深く余が腦裡に印象を與へた爲めである。一言一句も輕々に附せざるは、氏の特色にして、亦余の大に尊敬を拂ふた所以である、大下君は何處までも深切に眞面目の人であつた。
 大下君の專門は美に關し、余の專門は眞に關する生物の方面であつたが、自然に對する點の共通せることゝ、氏が藝術に對する理想と。余が學術に對する理想との、一致せる點よりして、意氣互に相投した、故に東都を辭したる後も、互に音信を廢することはなかつた。三十一年に、氏は金剛艦に便乘して濠洲方面へ赴かれた、同年二月十六日の書信に、昨年末一寸思付候事有之、年々海軍省が練習として派遣する遠洋航海船に、便乘致し、南洋の風物を。吾が材料と致し度、夫々運動致し候處、今日迄の樣子にては、多分目的を達し得る樣存じられ候、‥‥過日も志賀重昂氏に面會、濠洲地方の樣子承り候處、何分新開地故、都域外一歩にして、天然其儘なる偉大の風景これ有由、且天色水色等、到底日本に在て研究し得べからざる現象有之、港灣の入口等も面白く、畫家たるもの充分旅行して、之を究むる必要有之と申され候、且つ從來の日本畫家として、軍事上殊に海軍の事を調へ候もの無之故、先登として、夫等をも吾胸中の者と致し度、八ヶ月間船中の生活、多少其方の知識も增す事と存じ候、‥‥三十二年五月に、再び上京し六時は、大下君は既に遠洋航海より歸られて居た時であつた、共に連れ立ちて、洋畫展覽會を上野に見た事もある、又眞野氏及ひ早川君の令弟渡邊氏等と共に、船を隅田川に浮ヘて、一日の淸遊を試みた事もあつた、此時氏は居宅を今の目白阪に建築中にて、其畫室の構造なとにつき、色々苦心せられた樣であつた、三十四年の八月上京した時は、既に畫室も成就して居たが、此際余は同氏の繪の、全く以前と一變しれるに一驚を喫した、蓋し南洋旅行は、少からぬ刺戟を同氏に與へたものと思はるゝ、其頃迄の日本畫家の水彩畫は、一般に比較的淺彩色にして、幾分か日本畫の趣があつれ樣に思ふが、此頃の氏の繪は、余程色彩の濃厚になつた樣に思はれた、獨り色彩の變化しれるのみならず、畫法も大に變した樣に思はれた、同氏は從來の自分のやり方が間違つて居た樣に思ふから、全く之を破壞して、今や水彩畫の新生面を開かん爲に、再び最初の「いろは」から始むる處であると言はれたことを、記憶して居る。此後氏の繪は、其色彩構圖等につきては、多少の變遷があつた樣に思ふが、大體に於ては、此際に其大勢が定まつた樣に思ふ。初め氏は水彩を專門として、特に春の温和なる光景を研究する積りだと言はれたが、此點は漸次變遷して、近來は春よりも寧ろ秋に趣味を持たれ、特に幽遽なる湖水の畫は、氏の獨特であつたかと思ふ、兎にかく氏は靜かなる風景を、好まれた樣である。歐米觀察の途に上られたのは、三十五年の十月十六日である、余は其際岐阜に居たから、見送る事は出來なかつたが、其書信の一片は、同氏の意向の、何邊に存したりしかを窺ふことが出來る。
 今回の渡航につきては、種々難有、御注意賜はり忝く存上候、菲才到底御滿足に價すべき結果を得る事、爲し難き業には候ヘども、勉めて御失望を與ふる等の事なき樣、力を致し可申候、自己の職務上の點につきては、夙に理想これあり、從來の漫遊者は多く見て多く詰込む主義にて、只其見聞の廣きを誇る有樣に有之候ヘども、其結果たるや、徒に古人の作に倣ひ、今人の技に驚き、一の標的なく根據なく、迷ひ迷ひて終には洋行前よりも一層俗惡なるものに滿足するもの、比々皆然りと可申有樣にて、あの人は彼地の作はよかつれが、此頃は何んだとか申言葉は誰の口よりも聞く所に御座候、私は濁 り自ら思ふ所有之、ナシヨナルの一二も解せずして、ミルトン、セキスピアを語るの勇氣無之候間、彼地に在りては、假令其作者の有名なると、無名なると、作者が古代なると、近世なるに拘はらず、自己の解し得べき範内に於て、少數の作品につき、吟味咀嚼致度、より大なる仕事をなさずして、よ り小なるものに滿足して歸り度存居候、何れ四五年目には、 外遊の機を作り出す筈に付、段一段と進みゆくべく候、今回 は廣く見ず、多く聞かず、只に適切なる利益の少許を得べく、夫にて十分の妤結果を得しものと信じ居申候、希くは、世の所謂大なる望を、弱き此身に負はしめ給ふな、知る人ぞ知るに御座候。
 これにより氏か外遊中、如何なる點を觀察せられたかゞ推察せらるゝ、氏は能く己を知りて、及ばざるを及ばずとし、足らざるを足らずとし、常に向上發展を心掛けられたのである。
 大下君は理想の實行者にして、身を持するに嚴粛なりし事は、到底一般の美術家に見る能はざる所であつた、主義の人にして己の非と認むる所は、憶面なく苦言せられしことは、決して普通常人の企て及ばざる所であつた、故に輕薄無主義の人は、到底氏の友でなかつたと共に、一度相許したる人は、終身の友であつたと思ふ、親友は美術家よりも、寧ろ他の方面に存したと思はるゝ、明治三十五年八月二十八日の書信に、‥‥浮華輕薄なる世の中、私の如き意志弱きものは、稍もすれば眞面目の考を失ひて、往々前途の光明を失する事有之候、斯る際、貴兄の如き‥‥‥君の如き、畏友あるに加へて、君の紹介によつて得たる親切なる某君あり、猶某君の紹介されし人にて、極めて頼母しき友二三あり、今回私の渡航につき、最初の計畫よりも、少し餘分にエキスペンスを要する事と相成、親戚なぞに頭を下げる事は、好ましからず存候故、兎角考案中、某氏は私の意中を推して、多大の資を補助され、猶其上留守中の費用をも送らんと申され候、不肖私如き、何の見る所あけて、かく迄信用致し呉るにやと、身を顧て大に耻ると共に、友情の切なるに感泣致し侯、物に因ありて而して衆あり、早川氏に對する私一片の眞情をして、君は私を知り、隨て某氏を知る、世は廻り持に御座候。
 此某氏は非常に銃獵に趣味を有して居たが、大下君は禽鳥保護の必要と、娯樂的に動物の生命を奪ふことの罪悪なるとの點より、大に銃獵の非を主張し、一夜某と論戦して、遂に某に銃獵を斷念せしめた事がある、此他氏の忠言によりて、烟草を禁じたる人も随分ある樣に思ふ、氏は實に理想の實行者たると共に人をして理想に進ましむる人であつた。
 余を大下君に紹介しれ早川氏は、肺患の爲に、遂に職を辭することになつた、此際氏の配慮は、實に非常のものであつて、親友たるものは宜しく、かくあるべきものたる事を感ぜざるを得なかつれた。
 ‥‥先頃中、早川氏件につき、一方ならぬ配慮相受難有御禮申上候、右に付在京一二の友人とも相談候ヘどもよき方法も無之、結局有志の人により、幾分の補助をなし、心任せに養生爲致候事、宜しからんと決定仕候、‥‥三十四年五月二十日
 早川君の事につきては色々御心配相かけ申候、御申越の通り、同氏も昨今肖像等に筆執り居り候へども、不景氣の折柄とて、面白からぬ趣何とか救濟の方法相立度存じ候、重ねて御考もあらば御洩し下され度候、‥‥同年七月二日
 ‥‥かく喜ばしき友の上に引換へ、悲しむべき報知は常に筑紫の海より參る事に候、早川氏も最初は甚だ望多き樣にて喜び居候處、近來唯一の樂地とせる下宿には謝絶され、發熱日數漸く多く‥‥元より友人間の補助など望み居申さず候ヘども、今は所持の資なく、収入の目途なき樣子、先日一書に接し候ものから、私一己にて少しく用立置候へども、渺たる私如き身の上にて、長へに世話も出來不申、此後の方針につき心配中に御座候、‥‥同年十月五日
 大下君を初め、其他友人の慰籍ありしに拘らず、病氣が病氣とて、遂に早川氏は三十八年四月廿八日、余が在米中に白玉樓中の人と化せられた、此時大下氏よりの通知に、いざゝらば散りゆく花のあと追ひて、神のみもとに我急がなん、錦陵。右は辭世の歌に御座候、あはれ十餘年の親友なりしを、私は此歌を見、氏の父上が臨終の樣子を記せし書状を見て、涙を止めかねき、兼て覺悟の上とて少しの煩悶も見えざりし由せめてもの幸と存じ候、噫。
 大下君は實に情の人であつた、涙の人であつ糞、然るに早川氏の運命は、今回遂に大下君に廻りて、余は同樣の報知を、在米の友人に送らればならぬことになつた、實に悲痛斷膓の極である。

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