倫敦に在る舊師へ

比奈地畔川ヒナチハンセン 作者一覧へ

比奈地畔川
『みづゑ』第八十五
明治45年3月3日

 瑞西よりの御葉書も、難有拜見致しました、佛國巴理――英京倫敦、夢にだも見たことのない吾々にさへ、それ相應な想像を、及ぼすことが出來ます、美術家としての立場から、かゝる境地にあらるゝことを、一の理想として、羨望の至りに堪ヘません。
 もう先生には、四五年程も御目にかゝりません、その四五年前の、遊學時代の追懷は、かなり懷かしい記憶と、美はしい印象とを、自分ながら味はふことが出來ます、私のさもしい技術の程度などは、問題外と致して項きます、またそれ等の效果を、追ふて云々することは、負惜みかも知れませんが、恕じて項きます。
 先生の御留守中の出來事の中に、最も悲しい事件が一つあります、それは大下先生の死であります、日本の水彩畫界の過度時代に、最も篤實な、勤勉な、そして後進を誘導することに、日も是啻ならざりし先生は、忽然として亡くなられてしまはれました、私は何度先生を促がして、展覽會だの講習會溶のと云ふて、どの位御厄介を掛けたか分りません、あれも唯々、これも唯々と、たゞ後進の爲とあれば、どの位蒲柳の身を、犠牲にされたことでありませう、この異數の先生は、忽焉として眞黒な森ヘ落込んだ流星のやうに声多くの憧憬者を殘して、消えて仕舞はれました、悲しい極みであります、先生は今遠い倫敦に、大下先生は幽冥遙かに隔れつた地下に、私にとつて東京と云ふ地が、洵に寂しい處のやうに思はれてなりません、目と鼻の先程の、地に居て、もう三年程も東京の地を踏みません、そればかりではありません。
 近頃の日本政府の文明的事業だと云はれる文部省の展覽會と云ふものを、一度も見たことがありません、それは決して私共の生意氣から、そんなものは見ないなぞと、出過をたことをいふのではありません、かなりわざわざも見に行きたい位の、氣も出ますけれども、三四の新聞の批評や、幾葉かの寫眞版を見ますと、かなり私の見たいと思ふ慾望心を癒すことが出來ます、それならば、私の藝術執着心が、それだけ消耗したかと云ふに、決してさうでもありません、又それ程新聞の批評を信じるわけではありません、けれども、或は展覽會と云ふものに、狃らされてしまつたのかも知れません。
 それよりも、私の東京と云ふものに對する憧憬は、いつも四五年前の、記憶や印象に残つて居ります、第一隅田川が好きです、木母寺、曳舟、綾瀬が好きです、百花園の秋草の中に?まつて、大勢で寫生したことも忘れない事實です、又は三河島の榛の木林の、紫に煙るのをスケツチしれ事も、愉快なる一事です、それから何十町と續いた田端の大根畠、雜木林の目白の森、又は草と麥との荒川堤の土手に寝ころんで、饒舌な雲雀の、電氣にでもかゝつたやうに、ぶるぶると羽根を振はしながら、一段上りに雲の中まで登つて行く聲を聽て居ると、身も世もなく、好い心持になります、そして私は二年程も、上野の谷中の、森の奥に住んで居りました、あの杉の森や、五重の塔の影から、飛び出す郭公の影を見付けて、ど★だ★狂喜したか分りません、『あぢさゐや藍染川の片ほとり』と云ふ、根津の權現の社、太田の森の青く濁つた池、朝から晩ま旨て此等の中を、どれだけ繪具箱を以て、飛び歩いたでせう、『凧や二度の夜汽車の過て後』と云ふ、暗い路次ばかりの夜の千駄木、駒込神明町の先生の御宅では、幾度夜を更して、句會をやつたでありませう、滿谷、河合、平木、高村の諸先生、瓢逸奇警な小杉未醒氏、或は黒眼鏡の石井柏亭氏などは、此會に聯關して、私の忘れることの出來ない思ひ出であります。
 も一ッ申上ますのは、私が田舎から初めて上京した時、大下先生の畫室ヘ伺がつたときであります、日本室の廊下から、拾段程楷子段を上りますと、右側がすぐ畫室であります、扉をあけると、高い天井に北から光線が取ってあつて、油、水彩、またはいろいろな額が、一面に四壁に取付て居ります、一方には書棚に本が一ぱい詰めてあります、置棚には小さな旅行先からの半鑒的な器物が陳列されてあります、既製半製の畫稿や、作品が隅々に立並べてあります、煖爐も盛んに燃ヘて居ります、四五のお弟子達が、取まいて居る中に、端如として談笑しながら、畫筆を取つて居らるゝ先生の境遇は、都上りの藪鶯には、多大の感興と印象とを残したのでありますゝそしてシムプルな頭へ、客觀的に見た美術家と云ふもの、理想的な快味を、どれだけ憧がれたか知れません、私と同一な徑路にある諸君は、必ずこんな考をされたに違いないと思はれます。到底吾々に、ヂレツタントてあります、今だ★抵徊趣昧の中に、彷徨致して居ります、先生の御歸朝は何時頃てあられませう、願くは私も平凡無味な今の地を去つて、東京生活がしたいと思ひます、賑かな東京を意味するのではありません、懷かしい人々と、懷かしがつた地域を憧憬するのであります、そして私にふさはしい仕事を、靜かに勉めたいと思つて居ります。
 全體靜岡などゝ云ふ地は、中途半ぱの地であります、一層山の奥の木曾山中どか、信濃の森林とかの方が、どれだけ森巖壯大な自然の變化や、面白さを味はヘることだらうと思はれます、駿河の地は、一體に整ひ過ぎて居ります、三保の松原に、富士山の背景は、決して見て氣持の悪いものではありませんが、それは人形の美人を見るやうに、ノツペリと整ひ過ぎて居ります、其他、此近まはりには、山の奇もなく、林の面白さがありません、谿もなければ河の、おかしさもありません、雲の變化も味はれなければ、『それかと云ふ風俗のおかしさもありません、ただ温和な、平凡な、土地と云ふに過ぎません、私共のやうな、大平の逸民が、棲むには、よい處かも知れませんが、さて住で見ますと、飽き足りません、一生住み古る氣になれません。
 東京には、立派な劇場が出來たさうです、女優と、云ふ一團が、組織養成されたさうです、文學界には、自然派だの、デカダン趣味だなぞ、大分やかましかつたのですが、或一部には、さういふ盲從的な泰西趣味の移植を脱して、人性に對する固執性の、強烈な發顯とでも云ふべき、個人趣味を土臺にした立場から、あらゆる模倣を脱して、生粹な自己と云ふものを、描いて見やうと云ふやうな考の、一二の天才がほの見ヘて來たのを、最も怡ばしい現象と思ふて居ります、我が洋畫界も、過度期を過ぎて、もうそろそろこれと同一な態度を持する先覺者を、吾が有爲な少壯畫家の中から、得ることが出來るだらうと(思ふて居ります、きつとそのうちには、出て來ることゝ信して居ります、此頃は、また泰西文化の輸入につれて、私共のやうな田舎に居るものでも、後印象派(Postimpressonist)とか、新印象派とか名づけられつゝある、ゴオガンとか、セザンヌとか、マティスとか云ふ個想趣味の、強烈な畫家の消息を、挿畫まで、併せで見ることの出來るのを、せめてもの幸と思ふて居ります、今先生の周圍に、先生の目を驚かし、怡ばし、旦つ感ぜしめつゝある繪畫は、どんなものでありませう、そして總ての多くを、綜合した先生の御見識は、果してどんなものでありませう?
 私は先生が、一日も早く御歸朝の上、此等の御意見の、御發表と理情の實現とを、鶴首するものであります。‥‥‥‥下略

この記事をPDFで見る