栗林にて
こうし
『みづゑ』第八十五
明治45年3月3日
栗林は、自分が研究所ヘ入つて繪を習ひ始めた時からの、おなじみである。今でも自分は、繪を描くのを好まない時、又皆と一所に話をするのがいやな時には、此の靜かな、寂しい、まるで自分の樣た一人ぼつちな栗林ヘ來て、さくさくと落葉をふみながら、思ふ樣種々の空想に耽るのを、こよなき樂しみとして居る。栗林で思ひついた事を、これから順次書いて見ようと思ふ。
大下先生
○研究所の五周年紀念を兼ねた新年會は、芽出度く終つたり餘興には、例年の通り、劇其の他數番あつた。
○自分は新年會の役者の一人として、舞臺に立つ度毎に、先づ見物席を瞥見するのを、常として居る。
そして、いつでも、自分の第一に見出すのは、來賓席の一隅に行儀たゞしく、正坐されて、腕を組みながら、他の來客が笑ひ興じて居る時でも、其注意深い眼を、役者の一擧一動に注がれて居る大下先生である。
先生のお顏を見ると、役者の仕草は勿論、役者の腹の中迄でも、眼を通されて、熱心にやつて、來賓諸氏に滿足をあれヘてくれるか、何うかを見ておらるゝ樣で、先生に對しても、決していゝかげんにやる氣は起らない。
○鳴呼今はもう、先生にお目にかゝる事は出來ないのだ。今年も舞臺に立つて、觀客席を見わたして、そして、先生の常に坐つて、いらつしやた、一隅に眼がとどいた時に、いつもなら先生は、彼處に坐つて入らつしやるのだがあ‥‥、それにしても、せめて此の賑やかな五周年紀念の新年會を、御覽になる迄で、生きていつしゃつたなら、‥‥あゝ自分の胸はもう一杯になつてしまつれ。
○大下先生が我々を子の如くいつくしみ下され、又我々も先生を父の如く尊敬し、おしたい申していたのは、今更いはずもがなであるが、先生の愛は決して偏頗ではなかつた、新入生でも、古參な人でも、一樣に愛撫せられれ。
○自分が始めて先生のお宅に伺つたのは、二年ばかり前の、たしか三四月頃で、雨のしとしとと降る日であつた。丁度其日は、土曜日であつたからして、自分の通された二階の畫室には、二三の人々が、靜物をやつておられた。始めて伺つた事とて、先生は定めし嚴格な、かたくるしい人とはかの思つて居たのに、案外にも先生は、大變ひらけれ面白ろい方でした。種々話の末に、先生は「君はあのすごい煙の出ている繪や、虎でも出そうな栗林の、すごい繪はどうしましたか」と問はれた。自分は皆殆ど燒いてしまいましたと答えたので、先生はあゝいふ繪は紀念になるから、取つて置くものです」といつて非常におしまれた
粟林のすごい繪といへば、自分が研究所へ入學して間もない繪なのだが、先生のよく記憶しておられるのには、自分は旦つ驚き旦つ喜んだ。それは先生とあまり話もしたことのない自分の繪をかばかりに、先生は注意していて下さつれのかと思ふと、嬉しくて嬉しくて、先生の親切に感泣しないわけにはいかなかつれ。
○先生は又非常によく、細かい處に迄で氣のつく方であつた。
AYT君等が、先生の遣書をかたづけに、行かれて歸つてからの話に、先生の遺書が、畫室に山をなしていた中に、新聞や雜誌の切りぬきが、亦少なかうずあつたとの事である。察するに、先生はその等のものを、先生自身の爲めに、切り取つておかれたといふよりも、むしろ我々後進を導く爲めに、切り取つて置かれた物の方が、多數をしめている樣に思ふ。實際先生は、一寸した事でも、すぐそれを敎訓として、わかりやすく、我々におさとし下さつた。
敎ヘるといつても。先生は決して(ごく初學の人は別として)形にはまつたお敎ヘようは、なさらなかつた。其の人人によつて、よく特色といふ事に氣をつけられた。實に先生の如き好敎育家を失ったのは、かヘすがへすも殘念である。
○先生の墓標は雜司ヶ谷の、共同墓地に立つている。時々思ひ出しては、我々研究生も墓參に出かける。中には形式一遍に、皆と一所に行く輩もないではない。然し中にば、又自分の家の墓さへも、參詣した事のない連中も、先生のお墓ヘは出かける。
これ一つには、墓地が研究所の近くにあるといふのてはないが、寫生に行くに便利な地點にあるせいかもしれぬが、兎に角先生の徳が、しからしむる處だと思ふ。(二月四日)