池畔の森に就て

水野以文
『みづゑ』第八十五
明治45年3月3日

 場所は上州赤城山頂、血の池の畔りてある、偶作であるから、別段感想として書く程の事もないが、短時日の旅行の事であるから、緩くりとしても居られず、登山の三日目、見付け出した處で、此一ヶ所に全力を注ぐ可く、決心した、氣に入つたコンポジシヨンであつた。赤城の夏は、自分が今迄の旅行中、最も嬉しく思つた處で、全山の綠も、此處程落付いた穏かな色は、未だ嘗て見た事がない、八月の中ばであつたが、天氣は非常によく續いた、けれども山上の事であるから、時々綿をちきつた樣な雲が出て、午後に到れば、大抵は一帶に曇ると、毎日殆んと決まつて居る樣であつた、描いたのは午前である、全面に日の當つた場合も、非常に面白く思つたけれ共、前にも云つた通り、始終浮雲が出て、遠景を覆ふたり、又前景を曇らせたり、そうかと思ふた、或一部分ヘ、日の洩れる場合等、色々樣々に變化して、丁度自然か自分に、或物を捉らヘざせんとするかの樣に思はれた。自分には前景の曇つた場合を、一番面白く感じ、偖筆を執つて見ると、其雄大な感しは、到底視る可くもなく、二度も三度も洗つては描き描きし、途中で止めて、しまをふかとも思つたが、これ迄に費した時日が、惜まれて煩悶しなからも、描き續けて居る内、稍自分の意を得たる部分が出來たので、面白くなつて來た、そうなると、他の部分で、多少失敗しても、其部分が惜まれて、勢ひ骨を折る樣な譯で、どうやら出來上る迄には、丁度八日間を費したのである、それでも、午前中、日の當つて居る時、遠景を描き、午後に至つて、曇つて來れば、前景の影の部分を、いぢるといふ、苦しい策を講じた事も、三四回あつた樣に覺えて居る、而し繪の製作其物は、兎に角、山頂たの靜かな水を湛へた池の畔りに、たまたま通ふ馬子歌の、山に反響する聲を聞きながら、都かに繪筆を執る時は、あらゆる浮世の慾望も、打忘れて、全く自然に魁せられた、無我の境の人となつて、斯の道を研究しつゝある自分の境遇を、限りなく嬉しく、滿足に思つたのであつた、物質に捉はれたる世の人皆は、恐らく此絶大の幸を知る事は、出來ないであろふ。

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