日比谷の午後について

後藤工志
『みづゑ』第八十五
明治45年3月3日

 日比谷の午後について、何か感想を書けとのお話でムリましたが、感想をかく程の大したものでもありませんし、それに、又、深いかんがヘがあつて描いたわけでもありませんので、おことわり申しましたが、是非に、との事でしたが、何か少し書いて見ようと存じます。
 一體、私には、眼に見える總ての物から美を感受して、たゞちにそれをカンバスに歌うと云ふ樣な事は出來ません。否、私の感覺はそれ程、鋭敏ではないのです。私の腦裏には常に私の憧憬してやまない何に物かが潜んで居ります。私はその憧憬して居る何に物か、いはゞ私の理想に適した處を選んで描いて居るのです。私の現在はそれで満足して居ります、――たとヘ未來は思想の變換と共に盛んななローマンチツクなものを描くか、又はアンプレツシヨニストになるか何に成るかわかりませんけれども、――日比谷の午後は、私の理想のある一部にあてはまつてる處だと思つて下さればよいのです。
 昨年の夏、ふと日比谷ヘ遊びに行きました。それは丁度、よく晴れた最夏の午後でしたから、總ては、ぎらぎらとかゞやき、蝉はぢんぢんなき立て、蜻蛉は樂しそうに、飛びまわつて居ゆました。阿屋は強い影を堤になげて、藤棚の下にに散策の人々がごちやごちやと休息して居ります。其の中には懷しい赤い日傘も見受けられました。猫の毛の樣にふさふさした一面の草原は、暑つい、いきりをぽつぽつと吐き出して居る樣で、もち竿を持つれ小供が、そこ此處に、蜻蛉や蝉を、追ひまはして居ります。
 私は此の暑くるしくも、又、長閑なる光景に暫らく見とれて居りました。
 翌日から其處ヘ畫架を据えました。極めて、呑氣に描いて見たいと思つて居りましたが、技巧の幼稚なのは仕方のないもので、とうとう、目茶目茶にこれ上げてしまいました。それでも十日ばかりは通つたでしよう。常識的な私には、やはり常識的な色しきや、見出せませんでした。
 この樣な、理想的の自然を眼前に控ヘて、大なる感興を以てやり始めながら、やつばり努力主義一方の、つべたい繪にしてしまつたのは誠に慚愧の至りでムります。(二月十六日)

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