新年會雜報

美津廼家主人
『みづゑ』第八十五
明治45年3月3日

 本年は、前の水彩畫講習所が、日本水彩畫會と改稱せられて、專門の研究所となってから、丁度五週年に相當するので、大々的紀念會を開かふといふ事に、大下先生御在世中、早く既に計畫されて居つれ事であつたが、不幸にして突如、不歸の客となられたので、豫定の計畫も、余程縮小し、只研究所たげで、内々に開かふといふ事になつた。けれども、餘興の有志連は、非常に熱心なもので、昨年暮の内より、早くも支度に取掛つて、劇の番組も、それそれ決定されて、練習に着手した樣であつたが、年が明けてからは、尚一層盛んに練習して、當日の到るを鶴首して待って居る、仕末であつれ。今日は其當日に成つたのである、月次會は延はした方が、よからふといふので、明日一所に開く事にして、午後一時より、新年會を開くといふ觸れ出しであつたが、開會前より、非常に多くの來會者での余り廣くもない研究所は、到る處人で以て埋められて居る、會場なる二階の昇降口には「開會前二階に昇るべからず」といふ物々しい張札があつた、二階では、まだ頻りに小聲で試演をして居るらしい樣子であつた、餘興の支度の都合で開會は、少し後れて、午后二時半といふに、一同を會場ヘ導いたが、忽ちにして一寸の空虚もなきまでに、滿ちてしまつた、先生側には磯部、戸張、岡、大橋、永地、眞野、藤島の諸先生及大下正男君も、竹内久子氏と共に見へた、來賓の中にては太洋畫會の茨木猪之吉氏、例の不折式の容顏いかめしく、座に就けるが、著しく目に立つた、僕が開會の辭を述べて、直に余興に移る、一同に渡つたプログラムは、亦非常にハイカラで、時代の新風潮を汲む連中が、頻りに骨を折つた思考だけあつて、随分凝つたものだ、全頁殆んど英文でハーモニカ獨奏、及合奏、喜劇、正劇、夢幻劇、ダンス、獨唱、盆踊り等、今日の番組を羅置してある、多少プロクラムとは順序が變更されて、獨奏喜劇皿廻しと追々演じられたが、其御手製の道具建の大袈裟な事と、御手のものだけに、背景の見事な事には、少なからず驚かされた、窓には薄布を覆ひ、瓦斯の光りを用ひて、總て夜といふ思考である。何時の間にか、日は暮れて、晩餐も濟んで、余興は益々佳境に入つて、研究所近所の人々迄、聞傳ヘて、詰掛ける樣な仕末で、研究所あつて以來の盛況を呈した、加藤君の獨唱は、流石に異彩を放つて居つた、殊に女装の赤城君、アツコンパニストとして力められたので、一屑引立つて見ヘれ、大向ふから「イヨ御夫婦」は聞き馴れた誰やらの聲であつた、夢幻劇、正劇、いよいよ出てゝいよいよ妙、わけて夢幻劇は、大成功で、淋しい淋しい迷想を辿れる歳老ひし旅人の心持は、如何にもよかつた、それから「ねんねい旅籠」「ダクダク」「平維盛」等とりとりに面白く、觀者をして飽かず眺めしめた、男性に扮したる小山渡邊兩君、女性としては赤城、舟樹、寺田、後藤諸君の出來榮へは、中々見事なもので、殊に赤城君の女性振は、長髪たけに、無理な拵らヘもなく扮装に於ては、一番引立つて見へた、河上君の皿廻しは、失敗が御愛矯、望月君の盆踊り、皆それそれ異彩を放つた、斯くて最後の余與を終へて、研究所の萬歳を三唱して、散會した時は、正に十一時であつた。
 此日先生方も、諸君も、最後まで、座にあつて、飽かす眺められた事は、非常に嬉しく思った。
 若しも、本日大下先生が居られたならば、此の盛況を御覽あつて、如何ばかり喜んで下さつたであらふ、今日にして、そが得られないのは、返す返すも遺憾の極みである。而し先生の御靈は、其最愛せられし遺物の發展を見て、蔭なから頬笑んで、下さつた事と信ずるのです。
 終りに余興に務められし、諸君の勞を多とする所であります。

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