山岳の水彩畫家

小島烏水コジマウスイ(1873-1948) 作者一覧へ

小島烏水
『みづゑ』第八十六
明治45年4月3日

 藝術家の才能は、月給取りが、年功に依つて、一定の年月に若干の限度づゝ昇進して行くやうな、漸進加算的のものでなくて、意はぬ方向から、一時に煥發して來るものが多い、今日無名の靑年が、明日忽ち大家になつて、世間も駭ろけば、自分も不思議に思ふやうなことに、藝術の社會にのみ、格別怪しまれぬ奇蹟である。
 藝術家に最も尚ぶところは、獨創にある、獨創の天地を提げて來るのは、これだけ藝術の領域を弘くもすれば、富ませもするからである、併しながら、凡べての藝術が、自然から生れて來る限り、新らしい藝術家は、題目を人の着手しない自然から探ることがある、その場合に、勿論人の着手しない自然であるから、表現する方法も、範を先人の粉本から仰ぎやうが無いから、我から古を成すことになる。
 近代の自然は、研究にせよ、描寫にせよ、頗る多岐に又微細に亘つてゐるが、その中にも風景畫は、西洋では新らしい發達である、風景畫の中にも、山岳を描寫するといふことは、山岳それ自身の研究が、至つて近代に始まつたものであるだけに、新らしい畫家は、自分でその表現の効果に相應した、工夫を案出するのに、先づ苦しむ、伊太利近代の有名な山岳畫家ジヨヴアンニ、セガンチニが、アルプス山を描寫するために、創造したる色彩の分色法Divisionarismなどは、この著るしい一例である。
 セガンチニの事は、既に「白樺」や「早稻田丈學」で紹介されたから、私はこゝに重複したことを書かない、今私が傳へやうとするのは、佛蘭西最近代の山岳水彩畫家、ジイネJeansのことである、ジイネは、セガンチニ以來の山岳畫家として、恐らく第一人であるのみならず、も少し深く奧へと入つて來てゐる。
 よく誰は山が得意だとか、水が好きだとか言ふことがあるが、近代微細の官覺は、そんな大まかなところでは、濟まない、山のうちでも、火成岩だとか、水成岩だとかに分れて、その火成岩の中でも、火山だとか、花崗岩だとかに依つて、注意のしかたも違ふし、同じ水成岩でも、粘板岩だとか、石灰岩だとかで、氣分の持ち方も違ふわけである、專門といふことが細かになるほど、深くになるほどそこまで行かねばならぬことになるであらう、さうしてジイネはアルプス山中石灰岩の一種なる白雲岩の高山を、描くのに、獨得の妙を得てゐる、さうして又そのおかげて、一躍して山岳水彩畫家として、批評家の耳目を聳動させてゐるのである。
 藝術家の分野といふものは、勿論そんなに狹隘に、選り好みをするものでは無からうが、併し「何でも屋」が、最良の藝術家でない限り、たとひ狹くとも、眞に到つたもの、換言すれば、自然に純粹に透徹し得たものは、生存競争の烈しい藝術の中で、いつまでも踏み留まる權利を有するのである、ジイネはこの種の畫家である。
 二
 人も知る通り、フランスの巴里といへば、美術家の本場所で、各國から選りすぐれた人たちが、集まって腕を磨いてゐるのであるから、巴里で頭角を現はし、一般に認められるやうになるのは、容易なことではない、併し眞に才分ある藝術の士は、いつしか、前面に挺いて來るもので、ジイネは、正にその一人である。
 數年前までジイネなどいふ名は、少數の友人を除いて、誰も知つてゐるものは無かった、ジイネは獨佛戰爭の結果、佛國から獨逸へ割讓したローレーンの生れで、ナンシイに居を定めてゐた時分は、ヴイクトル、プルーベなどいふ美術家に、感嘆されてはゐたが、まだ一般に世間から認められてはゐなかつた、ところが生れ故郷のローレーンを棄てゝ、彼はアルプス山中の石灰岩で美くしいドロマイトに、永い漂泊をするやうになった、不便なる片田舎の不愉快ぐらゐは、彼に取つては問題ではない、彼は山中の漂泊兒として、天涯地角に倚るところもない寥廓の氣分を飽くまで味つた、それから後は人も知らないやうな山中の峠を橫斷して伊太利へ再び下り、ヴヱニスにも住まへば、テツサンとかヴヱネシアとかいふ場末の町にも、引ッ込んでゐたが、これ等は重に山巾生活に適しない氣候の時分に、止むを得ず選んだものらしい。
 ジイネは實に自分獨創の技術を持ってゐた、自分で自分を敎へた男だ、中心から動揺したところへ、自分を引き擦って往っては、畫架を据ゑたので、誰の畫風も、勢力も、課目も、あつたのではない、自然そのものを除いて師倣するものは何もなかつた、如何にしてあのやうな立派の作を描くやうになったのか、誰も秘訣を覗つた人は無いが、併し世間はその圓熟した作品を、いつの間にか示されてしまつた、四五年前、彼の作品がマジオレルの繪畫陳列所で、展覽に供せられたときは、その力量、その勇氣、殊には、その顯著に刺戟的な色彩はよく旅の繪師などが到るところの展覽會で、臆面もなく見せつける、踏習模倣、個人性なく、刷毛先の器用で間に合せてゐる代物などとは、飛び離れて異なつたものであつた、それから後フランス派の中には、大風景畫家が潜んでゐることが、駭きの眼を以て、世の識者から看取せられた、故カミイユ、グルール氏の美術館などは、自ら任すること頗る重く、未知數の新作家の繪などは、受け付けないほどに、拒絶的なものであるに拘はらず、ジイネの繪畫のためには、戸を開けるに至つた、万國協會、又にその他の種々の水彩畫展覽會に、彼の作品が出陳されると、愛畫家は待ち構へて、値段に構わず買ひ取るといふいきほひである。稀に彼の畫が所藏者の手から入札にでも附せられることがあると、殆んど空前な値段で、競り落されるさうである、明治四十二年にジイネは、ヅウワンベイといふとこ.ろで、獨立展覽會を開いたが、油繪、水彩、素描、スケツチ等、取リ々々に特色ある製作は、第二の自然を見るやうに、人々に迫つたのである。
 繰り返して言ふが、ジイネは深淵のやうに滾々として、汲めども盡きない獨創の技術を有してゐる、先づ第一に山岳の中から、白雲岩を選擇したといふことが、題目に於て、既に獨創的である、勿論近頃は、山岳畫家と稱する手合ひも、少なくはないが、ジイネが試みたやうに、又到達し得たやうに、比べ得べきものは、誰もない。ジイネが漂浪生活をしてまで、製作の對象としたり、また所縁としたりして、全人格を打ち込んでかゝつたドロマイト山といふのは、南方チロルにある、アルプス大山系中の一山脈で、石灰岩の一種、白雲岩から成立してゐる、我が日本では、石灰山と言へば、近江の伊吹山が、一番高いぐらゐのもので、アルプス山中の、それに比べ得られるものは、僅かに他の岩石、例へは砂岩、粘板岩の、赤石白峯山脈、花崗岩の穗高山、駒ケ岳、火山岩の富士、御岳、片麻岩の劔岳、常念岳等に於て見られるに過ぎないから、比較をして言ふことが出來ないが、歐洲アルプスでは、最も荒寥に、人跡稀有で、且つ洪大なる地域を占めてゐる、虚空に仰ぎ覗るさへ、眩暈するやうな高さで、妖術から咒ひ出されたやうな、駭くべき形態をして、絶壁の垂直なる角度は、雪さへ足溜まりを得られなくて、、辷り落ちるほどである、山頂は人間の建築力では、想像も出來ないやうな、神仙的な柱が、グングンと立つて、しかも圓いよりも、多少方形の位牌を並べたやうに見える、一體アルプスといふ大山脈は、火山それは日本には頗る多い)を除いて、その他の山としての型式は、大抵備はつてゐるが、中にもこの白雲岩は、獨得な容貌體式を具してゐるから、少し見慣れた旅客は、一見して、あれは白雲岩の山だと氣が注くほどである(と言つても、動物や、植物の生態のやうな、顯著明白なる特質を、現はしてはゐないが)が、山の頂の尖つた岩は、或意味に於て、岩石の刄であるから、觸れにくいのである、それをジイネは、自分に啓示された眼球で觀察して、自分の鋭敏な官覺に幻惑されて描いた、しかもその作品の背後には強大な自然力が潜んでゐる。それ等の點に於て、ジイネは、まことに前に述べたセガンチニにょく似てゐる、併しセガンチニに比べるとジイネの方が、最う少しく、科學的に且つ組式的なところがある、彼は岩石の地質上の特質や、形態やに就いては、隨分長い間、潜心に研究して、素描畫などでは、精細緻密で、駭ろくべき逼眞の畫を作る、セガンチニの山岳畫も、さすがにその邊までに來てゐるが、學ばないで自から到達したといふ趣きがあるのに比べて、ジイネのは、例へば人體を描くに、充分デヅサンを叩き込んだやうに、科學的の精密を根底に包含してゐる、しかもそれが、描き上げられて見ると、色彩の魔力が畫面に震動して、燒け爛れた玻璃の大塊の表面を、柔かい光線が流れ込むやうに、恍惚とさせる(その一例として、本誌に複製した、原色版を提供する、版はまづいが、これも白雲岩アルプスを描寫した一枚である)熟覗してゐると、暴らかな威力に於ては、セガンチニの作には、及ばないが、一面に於てフランス人たるを辱しめないやうな、典雅な氣分で、統一したところがある、荒ッぽい山を題材とした作品が、動もすれば、腕力と強制に流れやうとする弊から脱して、渾然とした、藝術品だといふ感じを抱かせる。
 三
 ジイネが濁創の一例としては、詰まらぬことであるが、普通山の畫家は、大抵山の足から描いて、頭部に及ぼして行くやうである、おなじみの大下藤次郎君の「寫生畫の研究」といふ本を開けて見ると、「山の部分寫生でなく、その山全體を、平地から寫す場合には、最初に地平線を畫き、それを土臺として、山の輪廓を取るのが順序である」「寫生すべく、輪廓を取る時、若し山の頂上の方から畫き始めると、思ひのほか裾が廣くなつて一枚の紙に、全山が入らなくなる事がある、それ故、頂上と麓との割合を、最初に點で決めて、それを直線で連續させ、まづ大體の形を取つて、間違なきかを改ため」(同書一六〇乃至一六一頁)と例の通り、親切に説いてあるのは、初學者に示すためであるが、併し大概の畫家に、山岳を頂邊から、呑み込んでかゝるやうな、不謹愼なことはやらぬらしい、けれども、ジイネは構はず頂點から、グングン描いてゆく、彼は海の畫を描いても中景に大波を躍らせ、象の鼻の曲つたやうな格好をしたところを、捉へてゐる、北齋の浮世繪でも、觀るやうな氣がする、そこに顧慮のない壯大が見られる、無限の地平線には、色彩の深淵があつて、そこから大波の頭が迸って來てゐる、水彩畫といふと、普通輕く淡い感じがするやうに、思はれるが、彼の水彩には恐るべき威嚴が伴つてゐる、それは「眞」に「力」が加はつたときに起る、緊張した感じである。
 ジイネの親友で、ルイブオーセルといふ男が、ドロマイト山中にジイネと一緒に旅行をして、製作の仕方を注意して觀てゐたが、歸つてからジイネの手法に就いて、書いたものの中に、かうした一節がある。
 ジイネは有らゆる藝術的表現の、土墓となるものは、手法を所藏してゐるといふことだと考へてゐるので、彼自身の手法を、進化させて往つた、畫家が自分の徃き方を確かめて置いて、機會に任せて、出たとこ勝負を僥倖しないやうに心懸けるのは、必要なことであらう、素より不正直なる惡達者は、恐るべきものであるが、併し良心の命ずるまゝに、自分が左右し得るだけの手法を作って置くのは、差支へあるまい、ジイネの手法は、落ち着いた、深い智識を、大膽に宛用したところから來てゐる、そこに彼の秘訣がある。
 更にこの男の言つたことで、ジイネの水彩畫に關した觀察が、又頗るおもしろい、それに依るとジイネの水彩畫の仕揚げ、その閃き、その堅實性、その音響が走るやうな赫としたところは、至つて簡單に、混合されない調子の重疊から來てゐる、ジイネは、純粹の色を用ひる、それも只だ粉の顏料を使ふ、その方法で、彼の水彩畫に獨得に見られるやうな、粉だらけの美くしいヱフヱクトを得てゐる、彼は決して染料的色彩を用ひない、さうして描いた水彩は、永久であつて、生のまゝで殘存することは確かである、彼の水彩畫には、色に就いてワツシユの手段を行つたものは、一つもない、又ホワイトも使はない、ホワイトが入用なときは、紙の白地をそのまゝに殘して置く、尤もこんなことは、誰でもやることであるが、珍らしいのは、彼のパレツトで一番入用になつてゐる色は、何かといふと、美くしい藤紫だの、花紺靑だの、崇嚴なる孔雀色だの、瑠璃色だので、それに自然の土を加へてある、レーキやカドミウムは、一切無いさうである、一言すればジイネは、色彩の中で、最も深秘的な、神仙的な、超越的な紫色を、自在に驅使するらしい、さうしてそれは益す、彼が生れながらのアルプス山中ドロマイトの畫聖であることを裏書するやうなものである。
 ドロマイトの色彩は、その岩石の彫刻から蔭影や凹凸が、空間に交錯して、複雜な形象と、心持ちを灸り出してゐるが、半天に絶大な天鵞絨の壁掛けを廻らしたやうで、その襞の中から、浮いたり沈んだりして、大小の織目を作る、諸ろの色彩が、夕陽に溶けて行くときの、基本的に統一された色は、強烈な紫||眞珠を塗り交へたやうな紫である、彼がドロマイトの作品は、必竟するに、紫の情調と、紫の深秘な力である。
 ドロマイトの畫聖として、特立抜群の彼は、フランスや英國でも、知られるやうになつた、英國の倫敦で、此頃開かれる、山岳會の山岳畫展覽會に、彼の作畫も出陳せられたことがあるので、英國人も、目をつけるやうになつた。
 併し同時に、ジイネは、山の外に何にも描かないのではない、又描いても佳作が無いといふのではない、ヅウワンベイの陳列室で、彼の作品を見た人は、單に山の作家としての、彼ばかりでなく、海の作家としても、少なからず印象的で、微妙なる彼を知ることが出來やう。
 ジイネのドロマイト山の代表作と言つても、然るべきものは、明治四十一年秋のサロンに出陳されたものが二枚ある、それに對するとカラリストとして、彼の駭ろくべき力量が、覗はれるばかりか、紫の勝つた色調が粉のついた翅を羽ばたきしたやうに、靜かに物哀しく、神經の繊維を顫かしてゐる。
 ジイネの作を複製にしたものは、私の知つてゐる限り、四十二年十二月、及び四十三年六月の「インタァナシヨナル、スチユデヲ」に收められてゐる、その六月號の方には「ジイネの水彩畫」と題した、ヘンリ、フランツの紹介文があつてフランツはジイネの作品の俊秀なるものは、大なるタアナァ(印象派の先驅者であつて、ラスキンが有名な「近世畫家論」のヒーローにした人)に讓らないとまで、言つてゐる、私のこの一文は、主として、右のフランツに、據つて書いた。
△坪内博士の土産話によると、大阪では、新劇が中々評判が宜く見物も多いとある、繪畫展覽會にしても東京よりは大阪で開く方が賣行よしとの話である、趣味俗惡と云はれる大阪が斯の如きは寧ろ不思議であるが實は不思議でも何でもない、大阪では新劇を見た、新繪畫を買つたと云ふとが一種の誇となるのでは有るまいか、イヤ、東京にしても此の弊はある、文明の一面には虚僞虚榮あり、然も解らず乍ら見たり買つたりして居る間に自然に趣味が出る、虚僞虚榮も亦進歩の道程か(都新聞一事一言)

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