沖縄土産

中川八郎ナカガワハチロウ(1877-1922) 作者一覧へ

中川八郎氏談 石川寅治氏談
『みづゑ』第八十六 P.9-12
明治45年4月3日

 毎年正月は旅行をする例になつて居るので、今年は紀州へでもと思つて居つた處、突然避寒かたかた琉球に行かうと云ふ事になつたのです、石川寅治氏、吉田博氏と三人で、暮の廿八日に東京を出發して大坂から船に乘り、道すがら別府などに遊んで、彼の地へ着いたのは、一月の十日頃、内地は冬枯の淋しいのに引替へて、あちらは初夏の感じで、若草は靑々として居て、家屋の構造や、風俗の異ふなどは丁度外國にでも來たような心もちがして、非常に愉快でした。
 一番心持よく感じたのは、空氣のよい事と町の家根が、皆赤く道路が非常に明るく見えた事です、町を歩く人の風俗が、また異樣で、女子は頭の上に、樣々の物品を載せて歩き、又面白いのは、口髯のある車夫で外では鳥渡見られません、町の中で、一番面白いのは、市場です、色々の必用品を、此處で賣つて居ます。
 此の市場は多く廣い處にあつて、琉球特種のガジ丸(榕丸)といふ大きな木の、強い緑の葉陰に傘を立てゝ丁度淺草の中店のような有樣で、商をして居ります、賣る人も買ふ人も、多くは女で、男は極々まれです。繪にして面白いのは市場、風景としては町端とか、士族町の並木とかいふあたりです。
 少し田舎に出ますと、此頃は砂糖を製して居ます、甘蔗を萬力にかけ、其木の端を、牛や馬の力を用ゐて絞るのです。那覇の港から、一里計りはなれた處に、首里といふ都があつて、此處には昔の城も、城壁も殘つて居り、殊に王樣の住居など珍らしく感じます、其構造は日本と支那とを折衷したもので、面白い建物てす、首里には旅籠も、茶店もありませんが、或る友人にたのんで、漸く土地の素封家の家を借りる事とし、蒲團、毛布、蚊張など、那覇から取寄せて、丁度十日計り滯在しました、首里の町は高い丘の上に有つて、八方を見渡す事が出來て、眺望の非常に好い處です、そして前景には、いつも町の赤瓦の屋根が有り、綠の野を越して、遠く海も見えます。首里から三里計りの處へ、案内を連れて、毛布、蚊張など持たせ、二日計り見物しました、一番困つたのは、かういふ場合宿屋も無く、凡ての食料迄持つて行かねばならぬ事です。
 私共の行つた「中城」といふ處に、琉球では非常に有名な處て、日本でいへば、楠ともいふべき王家の忠臣の、居城の在つた處ださうで、ここの小高い丘の上に、昔の城が殘つて居ます、此の城は居ながらにして、海からさし上る朝日も、西の地平線上にしづんで行く夕日も、只一目に見る事の出來る殊に珍らしい處です。
 丁度私共が、行きました時は、雨の降る夕方で、坂をだらだら上つて城の中へ入つていつた時は、非常に面白い感じがしました。その中の古い建物が今は村役揚となつて居り、此處へも賴んで、一夜泊りました、其夜は非常に寒く、高臺の事とて塞さが一層身にしみ、持合せの毛布位では間に合はず、蚊張迄も夜具の代理を務めさせる樣な始末でした寫生をするのに、一番困つたのは、余り人が集るので、繪を書くよりも、人を拂ふのに、骨が折れる事で、後には中學の生徒で繪の趣味のある人に來て貰つて、其人について居てもらひ、見物人を拂ふやうにしましたそれで余程助かりました。
 それから沖繩には「はぶ」が居るといふので、始めは氣味惡く思ひましたが、十二月から三月迄に、冬籠りで、少しも姿を見せません、四月から夏にかけて、出て來るそうですが、北海道と熊とを連想するのと同じ筆法で、土地の人さへ、容易に見た事がないと云ふ話です、蚊は年中居るさうです。
 物價は、内地とほゞ同じ位で、土地の人には、いろいろ住み安い便宜もあるようですが、他國の者ではそうは出來ません、三人が殆ど四十日間ばかり、休みなしに毎日寫生しましたが、まだ書き度い處は、澤山殘つて居ります、日本畫家にはどうか知れまぜんが、洋畫家が行って決して失望はしませぬ、今は一番よい時候ですが、今年は例年に比べて大變雨が多かつたさうです、尤も雨といつても、時々降つて來たかと思ふと、又すぐ日が出る樣なわけで、變化が非常に多いようにおもはれます。
 今一つ、殘念なのは。土地の人が、今は皆黑い着物計り着て居る事です、尤も夏になると、バショウフとかキビラとか、明るい色のみを着るさうですが明るい路や、明るい屋根に對してはこれ等の色の着物の方が如何にも南國的の面白味があらふと思はれるのです。
 要するに、琉球は、夏の強い日光とそれから、雲の變化の烈しい時が、一番よいと思ひます、場所で最もよく琉球の特色をあらはして居るのは、那覇と首里でせう。
 石川寅治氏談 近頃、洋畫の地方に普及された事は、非常であると聞いては居りましたが、此度沖繩へ行つて、見てその洋畫の盛に流行して居るのには、實に豫想外でした、沖繩の都、首里にも丹靑會といふ畫會がありまして、毎年暑中休みに、學校を借りて最早三回も展覽會が開かれたとの事です、其内容は日本畫もありますが七分は洋畫で、會員は廿名餘有ります、其會の有力者は、中學校、師範學校などの先生達で、其中に美術學校出身の關尾敬次氏、高等師範出の源河朝達氏、日本畫の山口瑞雨氏など、尤も力を盡して居られます、これ等の方々が、毎月一回宛集つては、各々の製作品の批評が有るのだそうです、土地の言葉は殆ど何やら少しもわけがわかりませんが、幼ない子供迄が寫生とかスケツチ等いふ言葉は、よく知つて居ます、寫眞師と間違へるような事は少しもありません、これ丈でも、いかに洋畫の盛んであるかと云ふ事が想像されます。
 又鹿兒島に芙蓉會といふ會があつて、之も會員が二十名計り、重に學校の先生と、實業家の若い人達が、中心となつて、矢張毎月、批評會が開かれるとの事です、いづれも暇さえあれば寫生に出かけるといふ有樣で、實に盛なものです。
  今度琉球の丹靑會の連中が、我々の寫生の模樣を見たいと、いはれるを幸ひ、通辯を兼ねて、案内をしてもらひ、まるで外國で寫生をして居るような心地がしました、其のため萬事に好都合で、處々の庭園とか、田舎家だとかいふ處も心のまゝに寫す事が出來ました。
  これに就いて面白かつたのは、寫生の道具などかゝえて、無斷に人の庭に這入り、おこられては大變と、土地の言葉で「今日は此處をどうぞ寫させてもらひ度い」といふ言葉を、始めに鳥渡稽古しました、それは(チヤーベラ、クマリカー、イーンカイ、カチグト、ノンアランコト、ミセレヤー、)て云ふんです。
  或る日製作品を是非見せてもらいたいとの事で、縣廳の議事堂へ陳列して、丹靑會の人は勿論、有志の人々に午後から陳列して四時半頃迄、見せました、會する人が四百人餘り、僅の時間ではありましたが、實に盛なものでした。
  首里に圖書館があつて、館長は沖繩縣人の、文學士伊波並猷と云ふ方です、山口氏は那覇に十五年以上も住まはれ、館長と共に美術の事を非常に奨勵され、美術の書類は鹿兒島の圖書館よりも、遙に多くスツヂオ始め樣々の美術雜誌が供へて有りました。

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