續三脚物語(二)
鵜澤四丁ウザワシテイ(1869-1944) 作者一覧へ
鵜澤四丁
『みづゑ』第八十六 P.17-19
明治45年4月3日
前々號あたりから、パレツトの事が、大分に噂に載て居たやうだから、その向を張る譯ではないが、少しばかり話さして貰ふが。どうせ無駄話だから、それからそれと、どんな處へ話が飛ぶか、自分ながら分らない位です。そこは御用捨を願ひたい。此間大下先生のパレツトの噂がありましたが、あれは先生が渡欧されたとき、倫敦で求められた品で、歸朝されたときには、日本に一品といふ品だつたと主人等もいふて居ました。今でこそ神田の文房堂に和製アルミニユームの四圓八拾錢などゝいふのがあるが、その頃はめったに見られなかつたのです。僕の主人なども何といふ氣まぐれか、素人の癖にそれを手に入れて、ひねくつて居る。それは兎に角アルミニユーム製は携帶に輕くて好いといふ事です。大下先生も、渡歐前には、文房堂の二圓半といふ品であつたそれも大分剥げちょろの、錆びたものでした。その以前のは、どんなものか、主人も知らぬといふて居ましたが。或時に先生が靑梅に居られたときに、裏の庭で、令息正男氏が、ブリキ製の錆びたパレツトで、すつきれた繪筆で何か、頻りに繪具を附けては、紙に塗りこくつて、寫生の眞似をして居たのを見たことがあるが、あのパレツトが、恐らくは先生が以前に使用したものではあるまいかと、主人が友人に話して居たのを、聞いたことがありました。
上等のパレツトで、一つ面白い話の持合はせがありますぞ。御承知の巖谷小波先生や太田南岳先生などゝいふ連中で、主人等と多摩川上流の拂澤といふ處で、寫生會をしたことがありました。この時の話に、巖谷先生のパレヅトがなかなかたいしたもので、これは先生が獨逸から仕入て來られたものださうです。大きさも大きいし、繪具の陶製の容器などは、フールケーキ(普通日本に來て居るのは、ハーフケーキといふて、丁度フールケーキの半分です)の繪具をそつくり入れられるものでした。先生の話に歸朝の際、船中で久保田米齋先生が、これを御覽になつて、これは本職の持っ品で、結構なお道具だと稱讃せられたとの話をされたことを、主人がその時の紀行を、時の文藝倶樂部の臨時增刊「山と水」に「水繪行脚」と題して書いたことがありました。其の後この記事を見て、是非その有名な、結構なお道具を拜見さして貰ひたいと、わざわざ來訪した人があつたと、申すことで、巖谷先生がこのパレツトもなかなか有名になりましたと、笑つて話されたのを聞いたことがありました。其の後先生から主人への折々の書簡のはしに、例の結構なお道具も、寸暇なき爲めに、繪具は、かびだらけです、なんといふ事をいふて來たさうです。それから曾て、五姓田芳柳先生なども見えたことがありましたが、先生のパレツトは、八拾錢位の品でした。それで半日拜島あたりを歩いて、ワツトマン四つ切り三枚許をなぐられたには、初心の主人は申すも愚、大下先生までも驚いて居られました。尤も皆繪は仕上げてない。あらましにスケツチして、白く扱く處などは、巧みなタッチであつた。これを家へ持ち歸つて仕上げるのだといふことでした。其の後のトモヱ會の展覺會に、これ等の繪立が派に仕上げられて、出陳してあつたと、主人が話して居りました。この時に窪田圭計大監(その時は少監)先生等も見えました。先生のパレツトは倫敦仕込みで、箱にチユーブ入の繪具を横に並べる樣になって居て、その差込みの盖が、パレツトになつて居る品で巖谷先生のに次ぐ結構な品でした。それから太田南岳先生のは、隨分ケチなパレツト、しかも和製の十五錢位のものでした、がこの事も「水繪行脚」中に書いたものだから、先生ひどく憤慨して二圓五十錢のを求めて、今度はこんなのを求めたと、それをスケツチした繪ハカキを主人に送つて來たことがありました。尤もその頃は文房堂にも、それ以上の上等品ば、なかつたといふ話でした。
話の序ですから、大下先生が歸朝されたときに、道樂道具を二つ持つて來られたことを話して見ましやう。それは寫眞器と燒繪道具です。この燒繪道具は、和田英作先生なども歸朝されたときに、持つて來られたと、主人が話して居りました。それにしても、大下先生が持歸られたときには、まだ賣物としては、日本に來て居らぬとの事でした。其後先生から聞いて、文房堂等でも輸入したのださうです。それに靑梅に居られたときに。白木の小箱を幾個も造つて、それに色々の模樣の輪廓を、燒繪で施して、その中に、グワツシの繪具を塗つたものです、なかなか面白いものでしだ。これは一寸繪心のあるものならば出來るから、内職などには、至極佳いものだ、それに割合に工賃もとれると、大下先生が主人に話して居たのを聞いて居ました。それから先生は、寫眞器を二箇持つて歸られた。これは米國で求められたとの事でした。一つは手札形の、ハンドカメラで、どうも餘り役には立ちさうにない品のやうでした。一つは手札二枚掛だと思ふて居ました。靑梅に居られるときは、度々寫して居られた。先生の令息正男氏と。主人の息桃二氏と、綠側ヘ二人並んで居る處を寫されたのが、主人の處に一枚あります、これもなき先生の片身だと、時々主人が取出して見て居ります。畫家と寫眞器、曾てアルフレツド、パーソン氏が、日本で寫生の傍ら寫眞器を携帯されたと見えて、渡船の處だの、子守だの、其他種々の人物を撮影されたものを、氏の著書に挿んであるのを見ました。そして氏が日本での作品を。上野の美術學校で展覽會をしたときに、或繪には點綴の人物を入れる爲めに、白く抜いてあるのが澤山にあつたとの話でした。これも多くは、點綴の人物を、寫眞のを入れるので、歸國の後に筆を入れる心算であると話されたといふ話でした。それから三宅克巳先生も寫眞器を携帶して。寫生旅行されると聞いて居ましたが、今はどうですか、知らぬと主人も申して居ます。 (つゞく)