大下藤次郎氏の逸事(下)
長野菊次郎
『みづゑ』第八十六 P.19-23
明治45年4月3日
大下君が靑梅に閑居せられたのは、三十四年の初夏より、三十八年の頃までと思ふ、余も一回、氏を其地に訪ふた事がある、靑梅は非常に氣に入つたと見え、談話中にも、書状中にも、よく靑梅のことが繰返へされた。
・・・・靑梅に參り候節は、新綠稍深く、何所も黑々としで面白からず、續いての梅雨に猶ろくろく寫生も出來申さず候へども、さすがに東京附近と異り、自ら景中に在る事と、材料の豐富何所を見ても、繪ならざるはなく、極めて樂しく存居候、心に何事の煩もなく、畫架に對して自然を寫すの時、此幸福は帝王も知り給はぬ事と、深く我身の天恵を感謝致居候、當地は万事不自由不便に候へども、其代りに天與の美は十分にて、近く東京及び武藏野一面、富士、日光、筑波をも一望し得べき小山あり、朝夕の運働には、極めて妙に、又多摩川は四五町の後にありて、夕毎に妻子を携へて、河原に遊び、清く冷やかなる水に、もすそかゞげて足をひたすなど、東京にては夢にも得られぬ清遊に御座候、鶯は窓に囀り、夕は閑古鳥の聲淋しく、螢飛び河鹿鳴く、實に樂しみは盡きざる事に御座候、只今借受居候座敷は、六疊及び十二壘の二間にして、奧まりて物靜に、傍に清水わきて流るゝあり、美しき庭あり、家人は極めて親切に、万事申分無之候、只目白臺の家の折々思はるゝに、繩の煩はしきと、蚊のうるさきとにて、是のみは實に少からぬ苦しみを覺え候(三十四年七月二日)
私共は極めて幸福に、靑梅に移りて以來に、一層幸を感じ居 候世俗の面白からぬ事を聞き、不快を感ずるは、いつも出京 中のみにして、此地にあれば日毎天氣の話や、米麥の話のみ、 極樂若し世に在らばかゝる田舎こそ夫なるべく存候、・・・・近 來は此地大好きに相成、畫室の一をも、作り度希望もさし起 り候、十月五日
虚僞醜惡の空氣に充ちたる都會よりも、質朴清楚にして、何等の飾る所なき田舎を好まれたのは、氏の潔白なる性格上、正に然るべきである。
「水彩畫の栞」を著はされたのは、三十四年の三月である、水彩畫の適切なる手引としては、此書が嚆矢であると思ふ、此小册子が水彩畫修業者に對して、多大の効益を興へた事は、今更喋々を要せないが、君の人格は此小勝中にも活然として躍つて居る。其凡例の末項に、此書記載の事項につき、了解しがたき所あらば、質問せられよ、著者の知れる限りは、詳細説明の勞をとるぺしと、何たる深切の言辭で有らふか、其後余は氏に面して、質問者の如何を尋ねたるに、氏は此書の發刊以來、大略一日一通の割合にて、質問應答をなしつゝあると言はれた、世上の書籍に質問に應する旨を記したるものなきにしもあらずであるが、實際著者自身が、之が爲に毎日一通づゝの廻答を與へたる人が有らふか、かゝる事は、到底他の美術家に、眞似の出來ることではあるまい、併し蒔かぬ種ぱ生えぬ道理にして、此小册子に對してすら、無限の責任を負ひ、天下同好の士に對して、熱誠の同情を寄せられたる結果は、やがて「みづゑ」發刊の基礎となり、みづゑに對する世の信用は、終に水彩畫研究所の設立を見たのである。
余が「みづゑ」の第五週年記念號に、興るかと思へば亡び、立つかと見るまに倒るゝ美術雜誌の多き中に、一回だも發刊期日を誤らず、一號は一號と改善を加へて、?に五週年に及びたる「みつゑ」の發達につきては、余は單に之を大下君の人格の然らしむる所と、斷言するに躊躇しないと、述べたるは、全く此間の消息を漏らしたのである。
一度「みつゑ」發行の豫告せらるゝや、未だ其内意の如何をも見ざるに、之が渇望者は、東より西より續々前金を輸して、其發刊の一日も早からん事を熱望したのである、印刷處も、亦氏の人格を信すること厚かりし爲め、其印刷費の如き、一月も二月も、殆んと請求せず、却て氏が其請求を促した位である、是が爲めに氏は豫て發刊の爲めにとて、準備せられたる資金に、多少の融通を見るを得て、之が續刊に、非常の便利を得られた由である。かくて「みづゑ」は健全なる發逵をなして、八十號を重ねた、此間氏か如何に自身の損益に頓首なく、一意專心、斯道の發育普及に熱中せられたるかは今更多言を要せない。初號の出づる時、余は米國滯在中であつた、氏が美術雜誌「みづゑ」を経營せらるゝにつき、大下君の人格を知れる余は、之れが成功の疑なきを自信した、併し從來三號雜誌の多き中に、特に美術雜誌の経營は一層の困難ならんことを感じたる余は、之れが爲めに或は氏が自身の、研修の發せらるゝ事あらんかを憂慮して、直に一書を發した、「みづゑ」の發刊は結構であるが、之が爲めに多時の時閥を要し、或は君の研鑽を妨ぐることありもせば、遺憾此上なしとの意を致した、然るに氏の回答は、近來の「みづゑ」の首頁に記せる「私は多忙なる一月のうち、五日間を此雜誌の爲めに費して居る云々」と同し意味であつた、かく、例令一人の寄稿者なくも、自己の材料のみにて、二ヶ年位は優に支ふぺき準備しあることすら聞き得た、僅か五日と、ニケ年の準備、これ亦恐くは、他の美術家の企て及ばざる處で有ふ。此覺悟と此準備とにより、「みづゑ」は一歩一歩に進歩發展した。大下君に實に博愛的の人たりしと共に、用意周到の人であつた。
此他、日本水彩畫研究所の設立等に關し、大下君に對する余の感想は、まだ澤山あるが、要するに氏は理想の實行に向いて、着々歩を進め、着々成功した人であると思ふ、又一個人として見れば、氏は情の人にして、知の人であり、美の人にして德の人であつたと思ふ、畢竟ずるに、常識の發達したる人にして、實にゼントルマンのモデルであつた事は、何人も首肯する所であらふ。今や年不惑を超ゑて、事業の基礎漸く堅く、向後の活動大に見るべきものありしに、一朝然として不歸の客となられた、美術界の打撃。國家の損失。余の絶望。噫。(完)