水の研究(一)
塔村生
『みづゑ』第八十六
明治45年4月3日
水の研究といふ特別號を出すつもりで、故大下氏の在世中に企てられたが、水の好きな大下氏が死去せられて、この企ても暫らく止めなければならぬことになつた、||併し集つた原稿まで、水に流すのは如何にも惜しいので、これから、ボツボツ見計らつて、一と纒めづゝ出すことにした、併し特別號としては、出さないことにしたから、お斷はりをして置く。
水、六種
余は山より水を愛す、之れ水村に生れたる故にや、或は又海岸近く生れたる故ならんか、余の里は常陸鹿嶋の水村なり、北浦の沿岸關東平野の第一位を占むべき處にして山脈を眺めんと欲せば高臺に登る可く、然らざれば見るを得ず、常陸には有名なる筑波の山嶺あれど、余の里よりは二十餘里、然るが故に余の水を愛する事幾倍に餘る。
北浦の水
思へば余ほど北浦の水を愛する者あらんや、潮泳はなんと無く、男々しくも思はるる物也、川汽船或は大船に乘じて、南下せんか、水靑く岸の芦は春にありては、芽を出し、秋にありて秋風に面を吹かれ、湖水の霞晴るゝにつれて、漁夫の船の多くなる又蘆の葉を分けて出でくる漁夫の樣を見ば、誰れか一句を俳せぎる者あらんや、遠く鹿嶋神社の森を見つゝ進まば、鴨の群の漁夫の船をめぐり居る樣は、潮水の趣味を味はざる者には、到底想像するを得ず、高瀨船の白帆を見、小舟大船の先きに後ろに靜やかなる北浦の影を作る、北半空には筑波の峯橫はり、浦上を渡る川汽船は、白波立てゝ往來す、此の小文明機關は、我が里にまで、平和な惠を與ふ。
沼の朝
余は水戸道中、涸沼の一村落に宿り、翌朝未明に沼岸を通過したり、春漸く深かゝらんとして畑の麥菜に處女の如く軟かく、向岸の櫟林はいまだ芽にして、影の靜けき沼に映ずる樣は、英國水彩畫の如し、此の軟かき女性の趣ある沼の水は、一面藍に見へ、靑に見へ、近きは砂色に見ゆ、小舟一隻魚を取らんとして、對岸より出でゝ白煙をたちのぼらす、沼の印象之れ也。
渓流の水
漢流の水を味ひたるは、日光の大谷川の水なり、然れ共余其の當時、幼にして印象も又淺し、水大岩小岩に打當りて、泡沫を飛ばし、岩を廻りて流るゝ溪流の味蛇籠を流れ小岩を流す水のカ、偉大なりと言はずや、流水の音百雷の如く、山をウネリネリりて、中禪寺湖より來る、漢江の渓流は斯く非らず、大岩橫たはらず、小岩あり、然して流るゝ處、荒野なり、味は日光に及ばす。
河の水
河の水は、余をして詩趣を味はしむ、我が縣下の利根川然り、水神々しく流れ、紳秘の極めざるなし、利根の水を思ひて来潮の『あやめをどり』を思へ藤田東湖の『總北城南十六洲、田園到處引春流、胡兒體道能騎馬、五尺村童巧盪舟』が十六島詩を想ひ、彼の偉なるを感ぜしむ。
次に漢江なり、漢江の水、時としては好く澄み、時としては濁々と流る、柿色の帆を上げたる朝鮮船の江を上下する趣き、又他國の河水之して別感を起さしむ、附近の山樹木を見ず、赤土山也、余此の山水を支那揚子江の繪の如しとす。
海の水
海の水は、余の郷里近ぎ太平洋鹿嶋灘こそ、余に深き印像を與へたり。彼の砂原つゞきの海岸に岩なく、打寄する浪は、赤みを含みて、浪の高き亭、普の高き事に於ては人をして大海の趣昧あるを思はしむ、次は余の渡鮮中渡りし玄海なり、之れ朝の内にして浪々として寄する大波は、山の如く、千噸近き汽船を自由に動かす、船體に波の寄せては碎け、泡水飛散して、甲板を洗ふ、太陽正に登らんとして、金波銀波の波靜かならず、水また綠に、赤みを含み居れり。
雨水
春雨に余をして雨を愛せしむ、山また森は、春霞の包む處、小糖の如き、三味線糸の如き兩||柳の芽の黄色きあたり、通行の人さへ、梅雨を排すも、春雨を排せざらむ、田舎家藁積み、若芽の樹木を畫く春雨の時、亦變らず、濁れる梅雨と違ひ、春雨は濁れるうちにも、晴ればれしたる風あり、晴れたる翌日、雨水に映る梅花などの寫生も、一味あらずや、然るに一時の降雨にありては、美を失す、之れ激しければ也、水濁れば也。
水の結論
余は前述に於て種々を論じたり、紙數の限りあれば、大體を述べたり、水は余等に美を與へ、生を與へ、敎訓を與ふ『水は方圓の器に從ひ、人は善惡の友による』とあり、、又種々あり水或は英雄と言はむか、常に在りでは白由に使はれ居れど、一朝洪水とあらば、國民の生を失はす。
澄みたる水に、物を投ずれば、水は圓波を作る、澄みて流るゝあり、濁りて荒れて流るゝあり、海の水の如き狂へるありて、水の趣味實に大也。(韓國京城、塔村生)