關西洋畫界通信(一)
紫舟生
『みづゑ』第八十六
明治45年4月3日
沈滯し切つた關西の洋畫界も、近來時勢の進運に連れて、稽活氣を呈して來た樣である、報告の林料も少くない、予はこれから、ボッボツ通信を始める事にしやう、例に依つて順序も、統一もない、只見たまゝ聞いた儘を、拙い筆の向ふまにまに、書き付けて行く事にする。
ミズキ會水彩畫展覽會を觀る、豫てから噂に聞いて樂んで居たミズキ會展覽會が、愈々二月二十四日に、京都倶樂部で開かれた、東京と異つて滅多に洋畫展覺會を見る事の來ない、京都で而かも水彩畫ばかりの展覽會!予は胸を躍らしつゝ、足も空に驅け付けた。出品者拾二氏、大小合して約八十點、展覽會と云ふものに飢えた眼には、皆取り取りに面白からぬものはない、抑もミズキ會とは、京都に於ける唯一の洋畫研究所たる、關西美術院の靑年畫家中、水彩畫を遣る人々を中心として、組織された會である、但しこの會員の多くは、油繪の餘暇に、水彩畫を描く人達で、專問に水彩の筆を取って居る人は、不同舎出身の吉田眞里民のみである、吉田氏は實に京都に於ける唯一の水彩畫家である。
夫れは扨て置き、頭の新らしい靑年畫家の、責任ある眞面目な出品斗りとて、予は多大の敬意を拂ひつゝ、幾度も見て歩いた未熟なる吾等が批評などは、僣越の沙汰であるが、只自らの特に好きだと思ったのを、報告しよう。河合先生の「小豆島スケッチ」三點は別として太田二郎氏の「入瀨秋」は、小品ながらその潤澤な豊富な筆致が、畫面に溢れて、如何にも心地よいものであつた、予は場中でこの繪が一番好きであつた、國枝金藏氏の「秋の曇り日」「春の夕日」も亦氏獨特の綿密な、そして衒氣のない研究的態度がよく表はれて、乍毎度敬服した、靑木精一郎氏の「おくつき」も懷かしい感じに富んだ繪であつた、吉田眞里氏は相變らず大作が澤山出來て居た、予は之の内で最も「お地藏樣」を面白く見た、「高い處から」「赤い山」なども今でも頭に殘つて居る繪であつた、氏の作品には、何時も溌刺たる筆致に、巧にバステルを混用してある、この行き方が、氏の特色であると共に、又欠點となる事があるかも知れない、二神徹也氏の諸作も、太平洋畫會の藤島英輔氏に似た筆致の、可成努力的な繪であつた、この外前川千帆氏の自畫木版は、甚だ佳趣あるものであつた、かくて予は充分の刺戟を得て、會場を辭した、水彩畫斗りの展覽會にして斯くの如く内容の充實した展覽會を見たのは、實に生れて初めてゞあつた、予は水彩畫界の爲め、この異彩あるミズキ會が益々發展する事を私かに祈つて止まないのである。
日本水彩畫會關西支部の復興、豫て事情の爲め休會中であつた關西支部は、この度復興の機運に會し、伏見の岡本氏等主唱者となり、再び研究を開始する事となつた、河合先生を始め、鹿子木、都鳥其他當地の諸先生は、益々確實に當支部の爲めに、賛助指導の勞を取らるゝ事となつた、二月某日藤田紫舟宅に於て、當地の春鳥會員相會し、復興協議會を開いた結果、愈三月から開始する事に決した、孰れ詳細の規定等は「みづゑ」紙上に發表する積りであるが、今度の改訂規定には、欠席者の爲めに通信批評の制も出來て、間接に講師の指導を受くる便利も出來たのであるから、成るべく關西地方に於ける同好者の入會を希望する。(三月十日)