ターナーの水彩畫
南薫造
『みづゑ』第八十七
明治45年5月3日
ターナーと云ふ人の事を考へると何時でも、如何して十八世紀に生れた人があんなに、極く近頃皆んなが研究して居る樣な事をやつてのけたかを不思議に思ふ、又其の一生を通じての作の多いのも驚くの他は無い。
ターナーの作の大作と云はれるものは殆んど油繪であるが、吾々が最も興味深いと思ふものは其の水彩畫の作の内に多い、其の内でも特に面白いと思はれるものは、綺麗に仕上つたものよりも其の習作畫にある。
英國ナシヨナル・ギヤレリーの、階下の二室は特に此畫家の水彩畫の習作數百點を以て充たされてある。
ギヤレリーの内英國の部にもまたターナーの一室があるけれども、其れは皆な油繪のみで、作は大きいが本統に面白いものは此の階下の、人の餘り多く行かない小室に藏せられた小品、略畫である。
此の室の作は比較的近頃、ターナーの住家を探して發見されたものださうで、ターナーの生存中には勿論、誰れも知らなかつたものである、又た若し其の時代に例へ人が見たとて到底解かつたとは思はれない是れは別の話であるが、今倫敦テート・ギヤレリーのターナーの室に藏められたる最も晩年の多くの作はホンの近頃迄未成品として庫に納められてあつたのを近頃漸やく、之れは立派に出來上つた繪てある事が解つて、驚く人の眼前に懸けられた。
習作は色々な風、色々な時代が皆な集められてある、先づ古いのから云ふと彼が十一歳の時に畫いた紬からある、其れは建物と水と舟及び其れに乗つて居る人物からなる、勿論見る程の作では無いが僅か十歳餘の小童の繪としては驚く可きもので又た其の根氣も感ぜられる。ソレカラ建築術を修業しつゝあつた時代の精密を極めたる建物を題とせる圖(十八九歳頃のもの)から中年、晩年の作が見られる、或る批評家等が最も嘆稱して居る四十歳前後の作の内『アイヴイー・ブリツヂ』の藍色の勝つた繪も此所にある。精密なる旅の紀念の無數の小畫は、月の下、霞の内、輝く日光の中、雨の日色々なる形に於て殘つて居る又數多き單色畫も見盡くされない程ある。晩年に近づくに從つて大膽な遣り方になつて來る、或るものは單に霧に淡紅な太陽の光りが當って居るだけを畫いたもの、又た夜の明けがたの濕つた重たい樣な空氣を通して水面のみが畫かれたのもある。色彩に就いての研究は年と共に非常な進歩の跡が見える。之等は皆な後年の彼の油繪が甚だ印象的になつた其の道行きを示して居る、此等の内にガラスの球瓶ヘ水を盛つて之れを極く簡單に色のみを以て寫生した一二枚の繪がある、抑も之れは何の爲めに寫し取つたものであらうかと自分は疑問にして居たが、後に至つて其れが面白き他の繪の材料になつて居る事を知った、其れは今日テートギヤレリーにある二三の理想的畫の構圖の下拵へとなつて居る、其の一は颶風(と覺えて居るが)の如きものを現はさんとして無數の人體は藍色の雲と共に圓形を畫いて渦巻いて居る、他には又た暖い明らかな色からなる同樣な構圖のものがある、之れが正しくがラスの球から構らヘられた繪であつた。
尚ほ雲、水、太陽の投げたる光などを研究したものは數限り無く見られる。
此のギヤレリーの二室の他には同じく倫敦なる通稱サウスケンシントンミユーゼヤム(實名ヴイクトリャエンドアルバートミユーゼヤム)の水彩畫部にも多數の彼の作を見る事が出來る。此所に於けるものは比較的若い時代のものが多い、即ち水彩畫としては大作に屬する『ウオークウオースの城』(二十三四歳の時の作)『ウスクの橋』(同年頃)『ホンビーの城』(四十五歳位の時)等より下つては『プリマウス』の港を見下ろせる青年の野邊に多くの華やかなる衣着けたる男女が群集して飽樂して居る繪(五十五歳位の時の作)『ライオンの河ふちの町』之等に至ると既に餘程晩年の風に近づいて居る、餘程所謂タナレスクである。ラスキンが最も稱讃したのは此頃の作で彼のモダンペインターを讀んだ人には特に興味が多いであらう。