繪畫美學(一)
服部嘉香
『みづゑ』第八十七
明治45年5月3日
セント・アンヅリュース大學の哲學敎授ウイルヤム・ナイト氏の名著『美の哲學』の第二巻にある「繪畫」と題する一章を譯して、本號から連載する。『美の哲學』の第一巻は美學史で、第二巻は美學各論とも言ふべき組織になつてゐる、穏健な普通の意見であるから、ある程度までは解り切つた事が書いてあるやうにも思はれるが、又かういう風の意見は、いつ讀んでも多少の參考になる。幾分か讀者諸君の興味を惹くを得れば幸である。
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(一)他のいろいろの藝術を論ずるに當つて、巳に繪畫についても十分に述べて置いたのだが、今暫く單獨に、繪畫について互細の點に立ち入つて調べてみやう。
畫家の踏破する天地は、最も廣い意味に於ける「自然」である。即ち外部的の世界と人性の世界とを總稱したもので、言ひ換へれば、畫家は、有生の自然と無生の自然とに行き亘つて「自然」を取扱つてゐるのである。然し此の藝術の到着する結果―その完成―の中には、吾々は二種類のものがあると見ねばならぬ。即ち一つは、油や水彩や、パステルや硝子によつて表はされた藝術家の製作品そのものであつて、今一つは其の複成品―例ヘば、彫刻家の手數にかけたもの、腐蝕細工師ゃ石版師が、木材、銅、銅鐵、硝子などに作りつけたものである。そして是等二種のものを総括して考ヘてみるに、凡そ人間に與へられる藝術的快味の最も大きなものは、漸く「音樂」一つを例外として、繪畫そのものであると思ふ。
繪畫には、他の如何なる藝術の中にも發見されない畫趣の元素がある、繪畫は、小さな畫布や紙片の上に大きな悲劇的の事件や悲哀に充ちた大物語を記載する事が出來る。國家的事變を記録し、又は偉大な一人格の内容を表現する事も出來る。或る一時代憧憬も、或る一世紀に通じた努力も、さながらに表はし出す事も出來る。そしてこれらのものは、文學を以て叙述する時は、たとヘ散文や詩歌の何れかに、ほんの輪廓を寫すにも多大のページを費さねばならないものである。又藝術家に許された構圖の自由によつては、即ち明暗と、形體と色彩との結合などによつては、繪畫は其の取扱ふ主題を、表現すると同時に理想化する事が出來る。たゞ繪畫には時間と場所との制限がある、詩は、例ヘば叙事詩に於けるが如く、殆んどあらゆる時間と面積とに行き亘る事が出來るが、繪畫の創作には、時間も特殊に、面積にも定限のあるのは已むを得ない事である。然し畫家には其の制限に對して埋め合せの利得がある。即ち僅かな一小畫面に、ある時間を明示し、さまざまの物語の、隠れた意味の大部分を描き出す、凝集の力を有してゐる。これあるが爲めに、言語を通しては表はし難いさまざまの世相(aspects of life)をも、畫面に表現する事が出來るのである。
附記、以上はナイト氏の繪畫概論である。これ以下は、摸倣、暗示の論から色彩、技巧などの論に這入つて行く。次號からは少し長い段落を紹介して行く事とする。