白樺と緑色の流

赤城泰舒アカギヤスノブ(1889-1955) 作者一覧へ

赤城泰舒
『みづゑ』第八十七
明治45年5月3日

 白樺私の好きな木の一つだ、綠色の中に白く立つて居る形は何んとも云へぬ優しい趣が有る。私が見たのはいつも夏で、あたりは何處もかも綠で埋つて居る時であつた。
 銀色の幹が樺色や黄金色に包まれて居る時は、何樣に美しいだらう、あたりは眞白に雪で覆はれた中に立つてゐる白樺は、どんなに面白いだらうと、常々憧れて居る許りで、種々な事情は私の望を滿足させる事が、未だに出來ないのだ、其優しさも、強い日光を受けたのを見ると、痛ましい樣な悲しい氣持になる、折角のつゝましやかさをむき出しにされるのだ、矢張曇つた日か、雨か霧の中の白樺が、私には一番氣に入つてゐる。
 白樺に初めて逢つたのは去る四十一年の夏で有つた、其なかだちをして下さったのは、實に故大下先生であつた、心から感謝せずには居られない、其旅行地は尾瀬沼であつた。
 先生も亦白樺に對しては、少なからぬ同情者で、尾瀬沼をも非常に好まれて居られた、近い内には、再び旅行しようと話された事も、皆水の泡となつてしまつた。其御話を聞いた時、私には何とは無しに行かれそうに思ヘなかつたのも、今となつて考へて見れば、不思議な心持がする。
 あのなつかしい先生と二度と一所に尾瀬沼へも、又優しい白樺にも、永劫に接する機會は得られないのみか、先生の温顏にも‥‥‥私の胸は張り裂ける樣だ。
 尾瀬沼は落付きのある、上品な、而して華やかな處だ、一面の綠の草原の中には、數知れぬ花が咲き亂れてゐる、暗い森の中には、種々な小鳥が互に聲を競ふてゐる、其中に立つてゐる白樺は、眞にあたりにふさわしいものであつた。
 四十二年の夏には、信州の發甫と云ふ處ヘ旅行した、其處でも多くの白樺を見たが、種類も悪く、周圍の關係も面白くなく、物足りない心持をいだいて歸つて來た。
 昨年の夏は旅行もせず東京に、夏中籠城して、暑さとも戰つて見やうと思ふて居た處、不意に私の慕ふてゐる白樺に、あふ事の出來る機會が持ち上つて來た、私は或る方の盡力によつて、旅行費を得る事が出來た、行先は曾て本誌ゃ「山岳」によつて紹介されて居る上高地と定めたのだ、其處には、立派な白樺の深林のあると云ふ事も、よく聞いて居た、出發の日は汽車の不通の爲に、とうとう一週間延びた、毎日々々新聞と首引で朝から晩迄、旅行地の事許に思ひ耽つてゐた。
 待つて居る一週間は、随分永かつた、八月十二日にいよいよ出發はしたが、まだ大月と初狩の間、十町許歩かなければならなかつた、眞夜中の十二時過、物凄い程暗い夜であつれ、をさへつける樣な雲は、空に漲つて居て、星の一つさヘも見出す事は出來なかつた、十三日は松本で汽車を捨てゝ半日馬車にゆられ島々ヘ一泊、翌十四日人夫を雇ひ、身一つに成つて徳合峠を越える、七里許の道なので、午後には早や目的地に着く事が出來ると思ひの外、峠の頂上にも達せぬ内に、正午になつてしまつた、急傾斜な木の覆ひかぶさつたいやな道で、多くの期待を胸にいだいて居ればこそ、こうして登れもするが、さもなければ一歩も動かせたものではない。
 一町行つては休み、半町行つては休み、私達は體一つをさへ、持て餘して居るのに、連れ添ふて行く、多くの人夫共は、名々に十貫目位の荷を背負て、左程苦し相にも見えない、同じ人間の體であり乍ら、境遇と云ふものは、こんなにも懸隔を生ずるものかと、驚かざるを得なかつた。
 頂上に着したのは、午後の一時過であつた。
 私達が思はず振りしぼつた歡喜の叫びは、木魂に響いて、靜かな山の中の空氣に、大きな波動が傳はつた、定めし山の精とかも膽をつぶした事だらうと思ふ。
 木と木の間から、雄大、壯絶、快嚴、何んとも云ひ表はしやうも無い樣な、岩の山が非常な急傾斜で、聳えてゐる、私はこの時、偉大なその姿に接して、實の山と云ふものを、初めて見た樣な心持に成つて、思はずも、心から私の頭は降る様な心持になつた、其下には梓河の白い河原が、綠色の中に横はつてゐる、もう今迄の苦しみも何も忘れて、勢こんで駈け下り、漸く平地に着く事が出來た、深い山の中の透明した空氣にも、夕方の心持が漂つてゐて、云ひ知れぬ愉快さを覺えた。
 白樺、柳、水、其問を放飼にされた牛や馬が、飼をあさつてゐる、赤味を帯びた水の中には、其儘形もくづれず映つて居て、山中の夕方の靜かさが、一層深く思はれる、其靜かさを破るのは、私達が土を蹈む音と、弱々響いて來る流の音許りだ。
 私はこんどの旅行で、好きな白樺の研究さへ出來れば、充分滿足する事が出來ると思つて居た、今この地に來て、疲れた目て、暗い森の中許り歩いて來た目で、美しく數知れず生へて居る白樺を、夕方の空氣を通して見て、悦にたへず、私の胸は踊出したのだ、曾てより豫想して居た事が、満足に實行する事が出來るのだ。
 どこを見ても、珍らしい物許り、燒岳の噴煙、梓河の流、曰く何々と、一々狂喜の聲を上げて、始めて遂ふ其等のものに對して、總べて稱賛の聲をはなつた。
 其夜から主この山中の只一軒きりの宿に横はる身となった、翌日早朝から場所を探し廻つた、連の三人は、皆それぞれに採し出した、氣早にも、どしどし筆を取り始めたのだ、私はしばしばスケツチを始めては見たが、更に何の感興もなく、中途で止めては、一日さまよひ歩いた。
 私が今朝の今迄いだいてゐた、白樺に對する熱愛心は、殆んど消え失せてしまつた、否決して白樺が、いやになつたのではない、白樺其ものに對する私の氣分には、少しの變りもないが、白樺と其周圍との關係が、私の情調を驅り出す事が出來ないのだ、うるさい、せゝこましいその地は、どうしても、私の趣味と一致しないのだ。
 旅費に制限されている滞在日數は、一日一日と少くなつて行く、心細さは實に限りない、毎日出掛る丈は出掛るが、何んの感興もないものを、仕方なしに、乾いた心持で、いやいやかじりついては居たが、もともと感興も無しに描いているものが、永く續かう筈がない、直にいやに成て一人先に、宿へ歸つて、思に沈むのであつた。
 只でさへ、乏しい私の情調は、枯れてしまって、同じものを見ても、他の人々程に、私の感興は湧いて來ないのではないかと迄、思ふように成つた、毎日この樣に早く切り上げて歸る原因は、外にもあつた、性來臆病な私は、こんな深山の中で、一人三脚に寄つて居る時、限りなき靜けさと云ふものに、常におびやかされて、背中から冷水を浴せられるやうな心持で、一時でも心安い氣分で居られた事はなかつたのだ。
 靜かなる恐れ、あせる心持、食物の悪い事等は、すでに其原因であつた事と思ふ。
 

 或時は、寫生中に私の耳の底に、床しい鈴の音を聞いた事もある、しかも只た三振丈、居もしない鳥の聲や、人の足音を聞いた事もある、喧しき都の電車の響をも聞いた。
 私の頭は、幻のやうになつて、筆をにぎつてゐる時、それらの音に愕然として立上っては、あたりを見廻すのだ、而して何ともないのを見ては、再び心を靜めては、筆を運ぶのであつた。
 私は毎日毎日、こんな心もとない氣分で、滞在日數の三分の二は、過してしまつた。
 或日私は、一人河原に沿ふて場所を探した。
 白樺に望を失つた私は、變つた方面に心持を導いて見たのだ、而して流れの中の、大きな岩の上に立つて、白い河原の中を流るゝ綠色の水を見た時、今迄死んだやうになつていた私の感興は、にわかに湧きかへつた、悲しかつた、怖しかつた心持は、急に消え去つて、始めて一點の光を認めた、この心持さへ畫面に表はす事が出來たら、外に望む事さへ無いと迄、思ひ込んだ、其日は早く宿に歸つて、半切を貼る、枠を一日かゝつて造つた、其から後と云ふものは、面白くもない他のものには目もくれず、專心に水の研究に勉めた。
 穗高の麓を覆ふ、暗い雲の蔭、柳や白樺の綠に輝いてゐる、暖い日の光、知らぬ人には信ずる事も出來ない樣な、美しい綠色の水が、白や赤や黄色の岩の上を、なだらかに流れて來る、其岩の上に立つて、廣い美しい水の面を眺めて居ると、私の心持は、體さへも共に、奥の々々方へ吸ひ込まれてしまふ樣な、心持になるのであつた。
 喧しい流の響さヘも、妙な至音樂の調べとも聞かれて、今迄に私の頭を驅けめぐつて居大怖ろしさは、跡方も無く成つてしまつた。
 私は終日、其河原の岩の上で、美しい流を見て、自分を忘れてゐるのであつた。
 豫定の滞在日も、終つた時、兎に角出來上る事は出來上つた、然し折角の美しい自然を、自分の表はさうとした心持さヘも、滿足に表はす事は出來ず、此の樣な何の感興も無いものを描き上げたのは、自然に對して、申譯もない次第だ、只己の技の至らぬ悲しみを、自然に訴へるより外仕方がない。
 こんな經歴を以てゐる――綠色の流――は、只平凡に、種々な色が并べられたのみに過ぎないものになつてしまつた。

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