續三脚物語(三)
鵜澤四丁ウザワシテイ(1869-1944) 作者一覧へ
鵜澤四丁
『みづゑ』第八十七
明治45年5月3日
前號にはパレツトの噂をしましたが、今回は繪箱の話をして見ましやう。大下先生が青梅ヘ初めていらつしやつた時には、ワツトマン八ッ切の畫嚢を携帯されたと主人が申して居りました、先生が初めて主人に會はれた時は、洋装に例の黒い帽子で、(大下先生は色變りの帽子は被らなかつたやうに覺えて居ります、尤も夏にはパナマを召されたやうでした)ダック張りの古い畫嚢を背負つて、前々號にお噂をした仝僚三脚子を携へて居られれさうでした、今私はダック張りの古い畫嚢、と申しましたが、畫の先生方の中では、油繪の箱でも畫嚢でも古いのでないと、はゞがきかないのだと申します、新しい箱を持つと、直ぐにありや新米だと笑はれるのださうです。それですから仝じ買ふにも古道屋等を探して、漸く古いのを手に入れて掘出し物をしたなど、喜んで居た人があつたとか主人に話して居たのを聞いたことがありました。今から十年前は、水彩畫の繪箱とビふものはなかつたのださうです。大抵は畫嚢で、ワツトマン八ツ切りか四ッ切り入りが普通でした。主人なども手製でダツク張りの畫嚢を作つたことがありました、おかしかつたのは四ッ切り入りのを作つて方々へ脊負ひ廻はして居ました。これを見て太田南岳先生が、仝じく四ッ切入りを作つた、しかも非常に大きなもので、それを誇り顏に脊負つて歩いて居た、其後に九ッ切入りの畫嚢を作つて持つて來たときに、私の主人に話して居るのを聞きますと、「僕もよくあんな大きなものを耻かしくもなく脊負ひ廻はしたものだね、今から思ふとほんとに身振ひがずるやうだ、實にわれながらあの大膽さがあきれる。」と申して居りました。實をいふと巖谷小波先生の令弟夾日先生が、いつもこの太田南岳先生を繪ハカキ等に描くときには、先生の耳の大きい處と、畫嚢の大きいのを脊負つて居る處を描いたものです。太田先生の畫嚢といへばなかなか有名なものでした、太田先生々々々々と申しましても讀者諸君には御存じのない方もありましやうが、先生は有名な太田蜀山人の後裔で、下條先生門下の日本畫の名手です、その頃水彩畫を頻りに勉強された方なのです、この頃諸先生の間にはその似顏を描くことが流行つたものです、和田英作先生などがその元祖であらうと思ひます、そしてもうタイプがちやんときまつて居て、誰の顏はかう、誰のはかうと、略線で巧にその特長が描かれる、長い顏は增々長く、四角な顏はいよいよ四角に、丸いのや腮の長い處、目の大きい樣、耳の長いのや、鼻の大きいの、カイゼル髯、亡國髯、ほくろ、瘤、じやんこ、頭の毛の長いのや短いの總て用捨なく誇大に描くのでした、六七年前の太平洋畫會展覽會に會員の戯畫が出て居たと覺えて居たと主人が話して居ました。それから和田英作先生の描かれた、似顔の畫が主人の手許にも一枚あります。記念の爲めに表装して、折々壁間を飾つて喜んで居ります。この頃或る寫生會の時に繪ハカキへ自畫像を描いて持寄ることにしれことがありました、矢張り青梅の坂上といふ旅舘の二階で開いたときでした、なかなか振つた自畫像がありました、(一寸お話し中ですが、この振つてるといふ言葉は主人や大下先生がこの頃盛んに用ひた言葉で其後東京で流行つたものだと申しますがどんなものでしやう、振つてるといふ言葉この時よりぞ初まりけるなど洒落るつもりでは決してありません)さてその自畫を各自に交換分配する前に、これを戸板ヘピンでとめて筒井年峯先生を煩はして、一照して繪ハカキに燒付けたものが、諸先生のアルバムに挿まれてある筈です、(太田先生を諸君に紹介した私は、筒井先生をも紹介するの義務があると思ひます、年峰先生は浮世繪の名家芳年門下の四天王の一人であることは先刻御承知でありましやう。處が先生は曾つて道樂が二つあつた、曰く銃獵、曰く寫眞、銃獵は近來止めて居るが、寫眞は素人にして本職をしのぐの技量があつた。曾て時事新報社にあつたときは挿畫と共に寫眞をやられた、その寫眞が非常に有名なものであつた、後に先生は社を辭して青山北町四丁目に寫眞の店を出した、先生の寫眞の技量ほどの技師は東京にも指を折るほどしかないとの事です。)その時の大下先生の自畫像は横顏の影繪でした、巖谷小波先生のが獨逸製花瓶といふので耳が花瓶の柄手になつてカイゼル髯のある珍品、主人のは木魚へ目鼻をつけ大もの、其他なかなか振つたものがありました、この時は中澤弘光先生や、岡野榮先生が見えたときでしたと覺えて居ります、話が横道々々へとつッぱしつて甚だ失敬。お話は再び畫嚢へと戻ります。嚢を携帶しますと、大抵は畫架、日傘等も携帶しなければなりません。
それから極畧して畫嚢ばかりで行くと、畫嚢を膝の上へのせて、その上へ畫板を置いて、繪具箱を片手に持つて寫生をするのですが、それではどうも不便でならぬ、何とか工夫はあるいかと大下先生に主人が申して居りました、尤も三宅先生等は繪箱に畫架、日傘、三脚を袋に入れて携帶される實に辨慶七ッ道具といふ格です。さうかと思ふと石井柏亭先生の如きは畫板と繪具箱、筆、等を風呂敷包にして三脚と共に携帶される簡略な方も御座る、ほいまた話がそれそうだ。或日の、と、大下先生が一日鋸引や金槌の音をごしごしこつこつさせて居ましたが、その翌日訪問して見ると、こんなものを工夫したと主人に示されたものが、桐製の繪箱でした。これは先生が油繪の箱を深さを淺くして、一蓋の方へ水張をした畫板をいれて、箱の方へ繪具箱、筆、水筒、筆洗等を入れるやうに工夫したのでした。そして開くと蓋の一端に絹糸が結び付けてあつて箱に釣りをとつてあつて丁度六十度位の角度がとれる樣にしてある、それから釣革は細い黒い革と覺えて居ます、この箱が今日讀者諸君が御携帶なさる繪箱の元祖といつてよいのです。文房堂あたりでもその頃水繪の箱はあつたが、桐製の極分厚な品で油繪のと全樣甚だ不格向のものでした。大下先生はこの手製の箱で一年位は諸處を寫生されたものです、主人等も杉板製の至極不細工なものを作つて一年許も脊負ひ歩いて居ました、それから大下先生が文房堂からニツケル製の箱の金物を買って來られて青梅の箱やに注文した、極く薄く輕く。紙などものり張りをよして枠へ押込むやうに工風された、これが今日行はれて居る大下式繪箱の初めであるのです、それから主人もそれを注文しました。それから町の有志も大抵作つたと覺えて居ります、大下先生がこの繪箱を作られてから、先きの桐製のを眞野先生が讓受けられて、曾て行徳方面ヘ大下先生など寫生に行かれたときに、汽船に乗込む際に誤つて、これを海中に落して大騒ぎをしたといふ話がありました。この桐製の繪箱を大下先生が携帯された紀念寫眞があります、例の太田南岳先生の大畫嚢もこれに映つて居る筈です、この時は巖谷小波、全夾日、和田英作、三宅克己、太田南岳、大下藤次郎、堀内凡水、小林珠郎。瀧島寛水、筒井年峰の諸先生と主人とで、總計十一人でした。丁度躑躅の咲いて居る頃で、金比羅山の上で、筒井年峰先生が特意のレンヅで撮られたものでした、この時の主人のいでたちはまるで仙金丹賣りのやうだとの評判でした、尤も繪箱を肩にして歩いて藥賣りと間違へられた例は幾らもあるさうです。
(つゞく)