春十題

織田一磨
『みづゑ』第八十七
明治45年5月3日

 春十題と命じたから、何となく雜誌のコマ繪じみて來たが、そんなものではない、只の感想である、季節の自然から呼起された自分の感想に過ぎない、夏十題、秋十題、と出來たら續けたいと思ふがそれは今から御約束は出來ない、何分ヂレヅタンスの態度でやることだから、惡からず見逃して下さい、それから春の季節のものはこの他に重要な物が大分残されて居ると思ふが、其れは今書き出す折が失はれて了つた。
 春と云ふ季節は、一年中で人間の尤も喜ぶ季節である。彼の暗い、寒い、淋しい味の多い、冬の沈默から逃れ出て、春の温味のある自然の裡に這入つた人間の喜びは、頂上に達するのである、そして見る物、聴く物、總てが歡樂に滿ちて居る如く感じる、自分はこの華やかな季節に對して、多くの人々と同じやうに喜樂することの出來ない、悲し味を感じる人間である、何故か知れない、原因は何も無い、
 一、春の色
 春の色は何の色?と聞かれたら一寸困る、桃色?櫻色??菜の花の色???そんな色ではない、そんな物から連想を求めるやうな色ではない、と云つて色がない譯はないし困つたな、こんな個々の物から春の色を求めても無い事は勿論ないが、大きな觀念は得るに難い、それより廣い野原や山岳や都會のあらゆる、物質を包む空氣の裡に、この春の色は至る所の端々迄行渡つて居るから、其れを見て歩いて居る内に自づと、一つの春と云ふ觀念を得ることが出來ると思ふ。
 二、柳の芽
 新綠の美觀は何れの木も同じではあるが、殊に柳の薪芽ほど自分の沈むだ氣分に或る温い感情を與へるものはない、暗い町々の内にもこの柳の芽が出る頃となると一道の光明が輝り渡つて、淋しい内にも何となく温味を帶びた感情が起るものだ、よく圖案にもあるが「蒲公英」が咲いて「ツバメ」が飛んで柳が曲線を空に浮き出して居る圖、こんな平凡な圖でも惡い感じは起らない、まして煤姻に黒ずんだ都會はこの柳の木が唯一の新しい綠であるから、この木が芽を出す頃を樂みにみて居る、そして「ビリヂアン」に「レモンヱルロー」を加味した色彩は水彩畫の好對象だと思ふ、佛のコローが好むで書いた、河柳の繪もきつとこんな「フレッシユ」な色彩の繪ではあるまいかといつも思ふ。
 三、櫻の紅
 櫻の色は一つ間違ふが最後全然、俗な畫となり終るので一寸六ヶ敷い畫題だ、さうかと云つて畫に出來ないものでは勿論ない、只其れを如何に解釋するかの點が面倒な所さ、自分などもつい今日迄、櫻の繪を描いた事がない、否櫻を書かうと感じた時がないのである、大抵の場合、櫻の花は其周圍の自然と不調和な折が多くて、今日迄これはと自分の藝術心に刺戟を與へた櫻がない、殊に紅の色の強い櫻は、駄目の場合が多い、併し装飾的の技巧で之れをやれば面白いかも知れないが、「レアリスチツク」の態度で描寫したく思ふ氣分とは、未だ逢着しない。誠に困つた物だ。
 四、春の雨
 俗唄に『春雨』と云ふのがある。一寸の春の感じ‥‥‥殊に濃艶な空氣を傳ヘて居ると思ふ、下町の路地で幽かに響く「春雨」の一曲惡くはない、甘い哀愁に滿ちた色のものだ、水彩畫には春の雨は、面白い畫題だらうと思ふ、華やかに沈むだ春の雨の町や野は誠に淋し味の多いものである。此の以前の文展に三宅君が「吉野山」を出品した、あの畫は自分の腦裡に今でも残つて居る春の雨の印象であらう。
 五、菜の花
 東京ではあまり一望十里眞黄色な菜の花の畑はないが、大阪附近では至る所に、金色をした菜の花の光が大陽の光線を反射して居る、菜の花の盛りの時は、總べての物が皆黄色となる、反射光線の強いのは、ちようど雪のようだ、そして黄色の野原の末に紫に煙つて觀ゆる遠山の色、惡くは思はぬ「コントラスト」だ、そして其黄色い海の内を赤い繪日傘の娘が通る、大阪の自然の誇りであらう。
 六、河岸の藏
 「デコラチユブ」に列んだ河岸の倉は廣重の五十三次を想はせる、あの鼠色の異大な建物、不可思議な其姿は我々日本人にでなく連來の外人を驚かせて居るやうだ。
 この前に來たノルヱーの畫家「ヱミールオールリツク氏」も、自畫石版に、この並倉を描いて歸つたように覺えて居る、白い色が誠に水彩畫として趣味あるもので、これ迄、多くの畫家が作品にこの倉の姿の殘されて居る。
 七、河の水
 河の流れて居る水を喜んで、其ればかり研究して居る畫家が外國にあると聞いた、名は忘れたが寫眞版にされた其人の作品は觀た、成程佳い出來だと思つた、併し自分は水丈では滿足しない、其れを描くと同時に自分の氣分も其の畫の裡に活かさなければ滿足しない、綺麗な水晶のやうな水でも、油のギラの浮いた黒い水でも、面白いには異ひないが、水の流れ丈ではどうも感心しないね。
 八、温室の花
 ずうつと以前に温室の花をワツトマン全紙に描いてみた時があつた、駄目だつた、あの水分の多い温室内の空氣が、とても一朝一夕の研究で出てたまるものか、蘭の花の甘い色、ベコニヤのハイカラの姿が平凡な技巧で出るものか、これ迄の上野で開催せられた、洋畫の展覽會に?々多くの人々が温室をやつて失敗して居る、あれを何とか上手に描寫すれば水彩畫に面白い題材だと思ふ。
 九、ポプラの綠
 ポプラは關西に多い、そして風にピラピラする輕い葉が何とも云へない感じがする、晩春の郊外に棒のように立つポプラの木は輕く水彩畫で描出す可き對象であると思ふ、去年の文展の中川八郎氏のポプラでは全く駄目だ、あれではポプラの天婦羅だと思つた、小杉氏の背景にあつたポプラも大砲の彈丸の破片の樣で面白くない、もっと輕く靜かな風にも動き出す感じが出ると宜い。
 十、島田の娘
 島田髷の娘と聞いたばかりで若い血は踊るようだ、濃艶な其姿は歌麻呂が佳くとうの昔に描き出して了つた、今日の畫家は顔色無しだ、歌麻呂の美人畫は肉も血もある人間を描寫して居るところに歌麻呂の價値はある、今日の日本畫家や洋畫家は何をしてるのか、其作品にはさつぱり美人畫として生命のある作品が出來ないではないか。

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