課題 余は如何にして水彩畫を愛好又は描くに至りしか。


『みづゑ』第八十七
明治45年5月3日

課題
 余は如何にして水彩畫を愛好又は描くに至りしか。
 ○
 私は始め軍人が志望でしたが、病氣になつて了ひましたから繪で立たうと決心しました。こういふと大下先生が、曾つて本誌で「美術學校を病院と心得てゐる連中」といはれたことが思ひ出されて恥しい次第ですけれど、私には先天的繪畫の技能を持つてゐたのではないかと思つてゐます、自分からかういふのも可笑しいことですけれど、私は未だ學校に出ない前から、石盤に船だの、馬だの、描いて遊んだことを覺えてゐます、學校に出るやうになつてからは、土地の風習に感化せられて繪でも描かうといふ氣はすつかりなくなり、只管亂暴な遊びにばかり耽りました、中學に這入ると間もなく、私は病氣に罹りましたから再び一人で繪をかいて遊ぶ人になりました。
 私が繪を志したのはこの頃のことでした。尤も此の頃までは、中學でも日本畫をやつてゐましたから繪といヘばすぐ日本畫を聯想しました、それで私の志望も矢張り日本畫でした。四十一年の頃、入院してゐる時、東京の姉から三宅先生の水彩畫手引を送つて貰ひました、私はこれを讀んで始めて水彩畫のどんなものであるかゞ分りました、そしてどうしても洋畫でなければいかぬといふことを悟りました。之れが私が洋畫に志した動機であります。
 これから私はあらゆる方法を講じて、一人で勉強しました。然しこの頃までは油繪が望みで主に人物と動物を描かうと考ヘてゐまして技術よりもそれ等の感情を描き表はさねばならぬと考ヘてゐました。こんな次第で私は苦しい生計の中からも、之れ文には應分の犠牲も拂つて研究を續けましたが、然し何といつても肉筆もみられぬし、適當の師も得られない境遇の私には勢ひ過まつた研究法も免れぬことでありました。
 四十三年の春、婦女界といふ雜誌の廣告で始めて本誌の所在を知つて注文してみました、それは六十一號で之れからすつかり「みづゑ」の愛讀者になつて了ひました、丁度その頃當地の新聞社が主催で、展覽會が開かれました、それには和田、藤島などいふ大家の油繪もありましたけれど、それよりも未だ私の心を動かして呉れたものは七高スケチ倶樂部の諸氏の描かれた水彩畫の小品でありました。
 この時から私は水彩畫を專攻しやうときめました、これが私の水彩畫に志した最初の動機で、この決心を愈強からしめたものは毎號のみづゑが與かつて力があります。
 之れからは毎日野外寫生に出掛けました。本誌の正會友ともなり繪葉書の交換も始め、廻覽畫帖にも加入しました。かうしてやつて居る間に私は自然にも、人物や動物と同じやうに微細な感情のあることが分り、いつか自然の耽美者になつて了ひました。
 然し私の病氣は未だすつかり癒つて呉れません、私の憧れてゐる東京に出られるのはいつの事か分りません。今は只毎月一回宛來る「みづゑ」と廻覽帖とに依つて僅かに慰安と刺戟を得てゐます、若し本誌の讀者の中に私と同じやうな境遇にある人があつたら私はどんなに嬉しいことでせう。(川幡正光)
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 私は松、殊に海岸に生えた、形の變つた直線的な松が好きです、松の間に光つて見える海、海岸に引き上げた漁舟、私は斯ういふ構圖が最も好きです。
 私は小學校時代から克く雜誌の口繪を切りとりました、慥しか四十一年の春だつたと記憶してゐます、少年世界の口繪に大下先生の沼津海岸の繪が出ました、私はそれがたまらなく氣に入つて、早速摸寫したのでした、私が初めて箱入りの繪具を買つて、繪筆を弄り出したのは其の頃からです。
 私は其の後も克くさういふ繪をよつて手本とし、さういふ場所を選つて寫しました、殊に大下先生の繪には私の好きな松や漁舟が多く描かれてあつた樣に思ひます、私が大下先生の繪を好む樣になつたのは、是れが爲めだと思つて居ます、或は先生の繪の感化によつて、私が、松や漁舟を好く樣になつたのかも知れません、實際私は先生の繪なりお話によつて水繪の趣味を解し、これを愛する樣になつたのであります。
 私は自分の任地が海岸の漁村であるのを幸今でも好んで松や漁舟を多く描いてゐるものです。(喜多寅助)
 ○予の始めて水彩畫を知りしは高等小學一年時分であつた。其の頃は、大下、三宅等諸先生の臨本を友から借りて來て、目茶苦茶に畫いたものだ、段々繪具の調合、筆の使い方等を知るに連れ、追々趣味を覺え、此の校に學ぶに及び、大日本洋畫講義録等を取つた、其の廣告中で(みづゑ)のあるを見、早速求めた、其は六十五號であつた、此の時分は所謂過度時代で寢食も忘れる程に熱注した、而して美術家たらんと志したのも此の時であつた其で今は摸寫を絶對に廢し、鉛筆、水彩等の郊外寫生を專にして居る、然し未だ技術に對しては卵子にも及ぱないのだから迚も他人に見せられる樣なものは出來ない、唯娯樂として今は研究して居るに過ぎぬ、だが將來は大いに爲すあらんと其を樂みに待って居る。(KS生)
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 僕が水彩畫を描くに至つたのは、『如何にして』などと、四角張つた原因や理由がある譯ぢあない。幼い頃から、僕にはこれと言ふ友達もなかつた、そして至つて弱虫で、皆と一緒に遊ぶのが嫌ひだつた、實際身體も弱かつたから、何も遊戯も出來ないで家にばかり引つ込んでゐた、所が不思議にも僕は繪を見ることが非常に好きだつた、全く何よりかにより一番好きだつた。それから、僕が小學校の、昔の高等二年の頃、一夜散歩に出かけて本屋に寄り、偶然にも大下氏の『水彩畫の栞』なるものを見つけたので、早速持つてた小使銭皆んなさらけ出して二十五銭で求めた、獨り喜んで毎日此ればかり見てゐた、殊に挿畫の「早稻田の秋」といふのを見て、水彩畫で此れ程迄に出來るものかと、大に感服した。それからといふものは、どうかして僕も畫を描いて見たいと思つて、十銭の繪具を買て來て少年世界や中學世界の口繪を矢鱈と摸寫した、そうかうしてる中に、中學ヘはいつた、一年級の時から『みづゑ』をとり始めて、二年の頃から、ちよいちよいスケチに暢出掛けた、然し當時はまだ馴れないものだから人が寄つて來るとすぐ道具を片附けて、大急ぎで逃げてしまふといふ風であつた、三年級の夏に、親父が東京へ用事があつて行くとき一生懸命に願つて文房堂から十六切のスケツチ箱と三脚とを買つて來てもらつた、其頃から少しは上手に描ける樣になつたのか、或はツラの皮が厚くなったのか知らないが寫生に出てもちつとも恥かしくなくなつて、スケチ箱をかついだ奴が來ても誰が來ても平氣になつた。今でも日曜には必ず水彩道具をかついで山か野に出掛ける。そうして一日飯も食はず夢中になつて筆を執る時は、あらゆる慾も打ち忘れて、眞に自然に魅せられてしまふ。こう云ふ時は實際。自分の水彩畫趣味を持つてることを、限りなく嬉しく思ふのである、それであるから旅行と言ヘば、未だ曾て寫生箱と三脚は手離したことがないのである。あまり自惚みたいな話をして御免下さい。(阪秀太郎)
 〇
 私が繪を描く樣になつたのは誠に近いことで、未だ一年許りしかなりません、しかも其動機が病氣とあつてはお話しするのには餘りに平凡で、そこに何等のインテレストもありませんがマア一通り聞いて下さい。
 私は一體幼い時から繪が好きで、随分徒ら書きをしては兩親に叱られました、繪なんか描いてゐると叱かられるといふ事が少さい頭に深く刻まれてゐました、ですから大人になつてからも繪といふ美しいものに憧がれてゐながら猶、繪かき貧棒になるのは不孝だと思つてゐました。
 私は曾つて北都に遊ぴました、神秘的なエルムの森、天鹽あたりの白樺の林、こんな自然の美に私の心は甚麼に動かされた事でせう、然し社會の人となつて繪筆をとるのは頗る難いことでしたが「みづゑ」といふ雜誌が私の眼に觸れなかつたのは殘念なことでした。
 俄然私は社會から廢物にされました、それは病魔に呪はれたからです、戀しい故里へ浮世を避けてから「みづゑ」を得たのです私は甚麼に嬉しく思つた事でせう、それから繪筆をとりました、そして自然に同化せんことをのみ勤めました。
 みづゑは私の恩人です、私の荒んだ心は長閑になり、自然の前に立てば煩悶も朝霧が晴れる樣に消えるのです、私は新しい生を得ました、何んといふ幸福でせう、其上慕つてゐた大下先生には昨夏親しく謦咳に接することを得ました、鳴呼其先生は今此の世の人でありません、荒川堤の模寫は私の此の上のない紀念となつてゐるのです。
 私は先生の日記にあつたやうに『私は繪畫の上にはアマチユアとして人生の上には禪僧のやうに、ライトタツチに滿足してゐるのである』と、此麼心持になりました、寫生道樂は私の生命です、他に何の野心もありません、智情意の理屈もいらねば、住みにくい處もありません、慾を申さばコロオの樣な生涯を送りたいと思ひます。(瓢花)
 ○
 僕には兄もなく弟もない勿論姉妹や叔父叔母もなく親戚らしい親戚もない、唯六十路に近い母の手許で、昔堅氣な義父に仕ヘて家事の手傳ひをしてゐるにすぎん、それで誰一人話相手にもなつてくれる人のない自分は、いつも沈み勝でつまらぬ事に心を砕いて此の尊むべき日月を費してゐた、而し此の腑甲斐ない身も去る四十年に上京遊學の途につくことを、義父から許され僕は籠から出された小鳥の樣に悦んで上京したものの、矢張り自分の心は依然として淋しい孤獨の境遇を悲觀せずには居られなかつた、僕は神経衰弱とでも言ふ病にかかつてゐるのか、顔色は日日に蒼ざめ手足なども見ちがヘる程瘠せた、いつも學校へは御役目に通つて、教科書の復習なんか殆んど手にしたことはなかつた、頃は丁度四十三年五月六日(?)の夕ぐれ僕は進まぬ足をひきずつて、本郷あたりを散歩した、そしていつになくよく所々を注意してながめて通つた、此の散歩の歸り路自分は何氣なしに東片町の本郷書院を一瞥した、そして先づ最初に目についた「みづゑ」六十二號を手にして目次を繰つた、曰く「甲州の初夏」曰く「初鹿野の大杉」曰く「さつきの旅」僕は何となく故山の風光を目撃してゐるやうにしばしうつとりとしてゐたが、一も二もなく此の本を求めて宿ヘ歸つた、「みづゑ」が此の世に生れていたのを知つて、何でも其晩二時頃までうつつになつて見とれてゐた。
 僕は其晩だけは、少くとも淋しさを感ぜず、嬉しい眼をつぶつて眠る事が出來た。
 其後、幾度も繰返して讀んでゐるうちに、どうやら自分も畫筆に親しんで見たくなつた。
 それで先づ學校用の繪具を借りて、口繪「森の下道」を夢中になつて模寫した、同寮の友は僕の好奇心を嘲笑した、而し僕は之等の嘲笑に打ち勝つ事が出來るだけ、此の森の下道の繪が自分に神秘な、そして犯すべからざる慰安と、力とを、與へてくれた、其後四十四年七月から、自分は再びこゝ甲州の山の中で、田園生活をせねばならぬ樣になつた、そして、時折は孤獨の淋味に襲はれる事はあるが、此時「みづゑ」から授かつた大なる慰籍の道は、畫筆と畫板とをもつて戸外を逍遥すれば必ず此等惡魔を撲滅して、自分をして瑠璃金碧の樂園に遊ばしめてくれる樣な感じが痛切に湧き起る。
 抑も僕が水彩畫を好愛するに至つたのは、此の「みづゑ」六十二號の遇然の御敎ヘによるのである。(荒井了道)

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