生れた土地の關係
長谷川利行
『みづゑ』第八十七
明治45年5月3日
私の家は舊家であつて、廣い庭の奥には古濠があつた。養つて居た鯉などをよく釣つて遊んだ事がある、その時分、濃青な深遠な幽趣な、水の面を『青き印象』として、私の眼に今でもちらついて居る。更に近郊には大きい池があつて、初夏の頃より、葦が繁つて、藻の匂の懷かしい夜は、徳兵衛爺を伴れ出して、古ぼけた小舟に、小さい膝をちやんと並べて、棹さして貰つた事がある。
大池とは『淀の大池』と通稱されて、私は實に水に縁のある淀町で生れ、生ひ立つたのである。實際の生れは、伏見町の母屋に當る酒屋の倉で、オギヤアとやつたそうだ。その邊の消息は知らないが、生れた事は確實てある。
學校に登るまでは、生れて七年といふ間は、幼稚な心懸にもせよ、水とは慕しみがあつた。
池の面に、赤や白の花が咲く、不思議と水の中で生きて居る魚や、機械を繰つて居るやうに考ヘた波や、さまざまの幼年の疑質は多大の愛育心があつた。
冬は薄い板が張りつめるのを、徳兵衛爺に告げて、乳母に怒られる恐怖心を偲んで、食べた事も懷かしい、ついつい飛んでゆく水蟲を見て、坊も水の上に乘りたいなど、ダダを?ねもした。兄と同じ絣の着物を作つて貰つて、水を嬉こんだ五つ六つ時代は、わけもなく華やかであつた。慕しい懷かしい水の郷よ、ながながと追懷的な感覺を呼び起させる。
水面に描かれた倒影は、美しい、幼年時代の心の儘でありたい、ローマンスにならうとする、私の心を抑ヘても、ローマンスとなりたがるのは、自然の讃美者よりも、造詣深いわけであらう。
尋常科の一年二年になつた頃は、常時の何の意味もなく、蛇を見付けた感じでなく、蝶々が菜の花に片々として居るのを眺めた樣に、身に快感を與ヘたのとは異ひ、半つぼんの洋服姿で、夏休に京都から歸ると、母や姉やと水嬲をして遊び、當時思ひ出せないが、誰かにつれられて、あの心を引きつけられた水畔の美しい畫をついてゆくと、必と赤いのや、青いので描いてくれた樣に思はれる。斯くの如く風土の關係から、十年十五年生ひ立つた私は、相變らず水の讃美者であつた。かかる境遇からして、私は海よりも沼や山中湖畔の方面の水に接することを希望して居る、夏など旅行すれば、必と海岸でなく、山に足を運び、湖のある土地の幽趣に憧がれて居る。
自然はかくの如くにして、水に愛慕が深かつた、高等小學に進む時、學校で何かの會が開かれた時、私も級の代表で、極く簡単な色彩の琵琶湖の景を出したことを記憶して居る。琵琶湖の水はその時からエメラルドグリンを含むで居ると思つて居た。
中學に轉じた時には、繪葉書流行があつて、澤山繪葉書を買入れ、湖畔の景色を重にアルバムに挾んで恐悦がつた。
かくして以來、私は繪畫の愛好者となり、手づからも繪を描き、水彩畫も描くやうになつた。水彩畫は日本の風景に適應した色彩であるといふ、この材料によつて、私が製作する湖水や、沼や、海の面は、いづれにもせよ、愛着やみがたい追懷の資料が伴ふ、水の感想であらう。