徳島へ

成節生
『みづゑ』第八十七
明治45年5月3日

 コバルトとローズとを流したやうな、うららかな彌生の一日、スケツチ箱や三脚を友として、徳島公園ヘ出かけた。ここ舊藩主蜂須賀侯の城趾で、四時の眺め悪しくはない、道程三里、麥綠、菜花を以て織りなせる錦の上を歩んで行った。
 公園は到る處春の光が行きわたつて、芝生は一面のエメラルドグリーンに、櫻花はローズマダーに、松といはず、杉といはず、柳も、樫も、皆冬の衣をぬぎすてて、春衣を飾つて居る、ベンチにも、木蔭にも、高き所も、低き所も、わかきあり、老たるあり、男あれば、女あり、瓢さげたるあれば、握飯結びたるあり、といふ樣、千態万樣とは、こゝでは生きた形容語、私は鐵面皮にも、スケツチ箱を開いた、遠景に眉山、中景に松林、近景には爛?たる櫻樹、(月並ではあるけれども)寫しはじめた。
 物珍らかなので、人の山が周圍にできた、日から生れた見物人、あれが眉山、それがあの松林、今のが櫻などゝうるさくつてしかたがない、それでも八ッ切、十六切、二枚は物になつた、終ると氣が清清した。すぐ中央なる城山ヘ上つて四方を打眺めた、足下は人口六萬の徳島市街、近くは銀針の如き吉野川、紀淡の海を隔てて、東北遙かなるは紀攝の連山で、煙の樣に淡く霞に包まれて居る。私はかゝる境ヘ來ると、いつも自然の偉大崇高といふ感にうたれるのである、西の空がオレンヂに輝いた時分歸途についた。

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