個性を失ひたる繪畫
齋藤與里
『みづゑ』第八十八 P.4-5
明治45年6月3日
私が此度の太平洋畫會展覽會の出品畫を通觀して、何よりも一番強く感じたのは「繪畫も個性を失ふとかう云ふものになる」と云ふ實證を呈して居た事でした。
尤も此の傾きは毎年此の會に依つて感ずるのですが、殊に茲年の展覽會で其の實證が確實になつた樣に思はれるのは、あながち私の氣のせいばかりでもない樣に思はれるのです。同じ藝術と云ふ名の下にあつても、全然自分の頭腦から出さなければ出來ないものと、お習字の樣にお手本を見てお稽古すれば、お稽古した丈に進むものと二樣に分れて居る。而して具體的に作品の價値が現はれて來る方の部類に屬するものは、重にお稽古に依つて小手先きの練習に依つて或る處迄は進むのであるから、繪も亦其の道理にもれないと思ひます。
繪を描くのに手先きの練習のみで進むで行く人は最も早く繪が上手(所謂)になるので、どんなものでも苦もなく、直ぐに描いて終ふ樣になる事が出來るのです。而して繪を卒業すれば、稽古時代に旨く描けなかつたものが樂に描ける樣になるのです。終ひには頭に筆をしばり付けてゞも繪が描ける樣になるのです。さうなると活きた人間の個人性と云ふものは、全く畫面の何處にも見出す事が出來なくなるのですから、藝術品として尊重する事は出來なくなるのです。
私が此度の同會を見て非常にあつけなく思つたのも、其の爲であつたと今でも思つて居ます。
其處で私の話を誤解されない樣に、付け加ヘて置かなければならないのは、單に風の異つた繪が個人性をつないだ繪だと思ひ込まれない樣にしたい事です。
風の異つた繪を持ヘる積りで、殊更にやればどんな風の繪でも出來ます。而して一風異つて居るから其の人の個人性をつなぎ得た繪だと云ふ事が出來るなら、繪畫に於ける個人性などは實につまらないものです。
私の此處で畫面に要求する個人性は、藝術的良心の事です。藝術家から此の良心を引き去ると何でもない人になる、と云ふ位藝術家に取っては大切な藝術家の活路です。それでつまり此處に題した個人性を失ひたる繪畫と云ふのは、右の良心を失つた人々に依って描かれた繪なのです。
此處で云ふのは繪の價値の問題ではありません。個人性を畫面につなぐのは藝術品の仲間入りをする第一歩で、繪畫の價値の優劣はそれからになるのです。畫面に個人性が出て居りさへすれば、それが最上のものとは云はれません。
個人性が出て居つても、それが偉い個人性でなければなりません。然し個人性のある繪は少くも藝術品―たとひそれが低級なものでも―の仲間入りだけはして居るのですから、藝術品の仲間に一歩も足を入れる事の出來ない、個人性の無い繪よりもましですけれ共、要は只、藝術的良心を失はない樣にして、それを益々高めて行く事だと思ひます。此度の太平洋畫會展覽會の出品畫を見て、云ふ事は之れだけしかありません。