第十回太平洋畫會展覽會水彩畫パステル評

赤城泰舒アカギヤスノブ(1889-1955) 作者一覧へ

赤城泰舒 水野以文 後藤工志
『みづゑ』第八十八 P.7
明治45年6月3日

 太平洋畫會もいよいよ第十回の展覽會を開く事になつた、其紀念として各會員の作に成つた樂燒、版畫、燒畫、日本畫、彫刻等も陳列されてある、出品總點數五百十八、中、油繪二百二十五點、水彩畫百四十五點、パステル四點、彫刻四十二點、外に特別室として故大下藤次郎氏遺作三十二點、吉田、中川、石川、三氏の琉球寫生六十九點ある、水彩畫は實に總數の三分の一を占めてゐる、同會の水彩畫は其少なからぬ勢力であると云ふ事は世の認めて居る處である。
 私達は未だ研究中の少さな、哀れな卵子の一つに過ぎない、批評などと大きな抱負を持つて居る譯ではない、只一の研究者として、出品された水彩畫及びパステルに就いて眞面目に感じた點を書き並べて見る。
 

高原の立茨木猪之吉

 私達は何邊も繰り返して見た、私達の書く事はごく皮想に過ぎない、誰れにも分る幼稚な觀察である、けれども自己を沒却する事は出來ない、と云ふと大變立派に聞えるが動かす事の出來ない評が云へると云ふのでもなく、又御世辭も云ヘない、只思ふたまゝ隨分不遠慮な事も臆面もなく書く、若し作者諸氏に、不満足なる點があるならば、夫れは、私達評者の足らざる處と御許しが顧ひ度い、一寸一言作者諸氏に對し盲評の御詫びをして置く。
 何れと云ふて目立つたよい作品と云ふものも見當らない、年々歳々同じ事が繰り返ヘされてゐるに過ぎない、私達には自分にも、出來ぬくせに歯がゆく思つている、陳列せられた水彩畫及パステルに就いて順に一枚一枚書いて見る。
 八木定祐氏、畫に活氣の乏しい事、物質の見方の淺薄な事は氏の畫に通有して居る良くない癖だ、いたづらに達者な手際を見せようとするのも餘り感心された話でもないと思ふ、其樂に仕上げを見せ樣とする爲の達者なブラツシに淺薄と云ふ事が伴つて來るのでは無からうか、尚一歩を進めて自然に就いて深い研究を望む、(一)河原の湯、雨降りとしては深味に乏しい、殊に草屋根には日でも照つて居る樣に見える、連景より、屋根の方が暗くなければ成らないかと思はれる。(二)菜花畑、氏の四點の中最も拙作だ。(三)十一月、稍高處より見下して、畫面全體に畑と、山の斜面とで、覆はれている。秋の日も心持よく、一條の暗流も黄色を以て大部分を覆はれた畫面に變化を與ヘてゐる、只距離の見え無いのが缺點である、氏の出品中の佳作である。
 (四)村の細道、美しく色どられた秋の山中の寫生である、日に向つて描かれたものて其困難は察せらるゝが、色紙を貼り合せた樣な感がする。うるさい蔭の形もまとまらず單純な黄や青の配列も餘り呑氣過ぎる、(赤)
 

徳合小屋瀧澤靜雄

 見方の幼稚淺薄といふ點は同感である手際よく纒めんとする結果非常に臆病になつたのではあるまいか、今少し無邪氣にそして大膽にやつて貰ひ度いものである。(水)
 同氏は昨年の秋以來性格に一大變化を來して、其の行の一部の如きは所謂デカタンに類した事を、まゝやられる。そして、藝術に對しては眞面目に、詐らずに、自己の感じた儘を大膽に表はすのだといつて居られる。其の行き方は純然たるアンプレツシヨニストで、私は今度の展覽會には、同氏に期待する所が多かつた、處が今其の諸作に接するに及んで、少なからず失望した。成程八木氏慣用の暗い、やに色はなくなつたが、其の作品は依然たる八木氏で、眞摯のかけた、淺薄な、普通の人の見る色、まるで言行と矛盾して居る様に思ふ。もつと深く自然に接してほしい。(四)はブリキ細工の如く總體に堅く淺薄に、(五)は明るい處を描くに、たゞ美しい色をならべたといふだけで、少しもこうした場所に對する懷しさは感じられない。(後)
 茨木猪之吉氏寒い堅い色がつき纒つてゐる、信州の高原に居を構へて、其等の研究に勉めて居らるゝ爲かも知れないが、其寒い色にも堅い色にも面白味を欲しいと思ふ、ブラッシも、うるさい。(五)巖壁と云ふ題は適當して居ないやうに思はれる、曇つた日としても暖味や變化が欲しい。(六)高原の夕立、夕立と殊更らに斷られ度くなかつた、全體に綠の多い爲か前者程貧しく見えない。(七)二月の末、心持は出てゐるが奥行がない、三點中の佳作である。(赤)
 

石灰小屋望月省三

 色及調子の奥行と共に筆の上に今少し遠近の區別があつたならば尚よいと思ふ、遠景も前景も皆一樣の筆致は徒らに固くうるさいのみである、山上の空氣といふものも現はれて居らぬ樣に思ふ、三點の内「二月の末」を取る、「高原の夕立」は前の柳と遠景と全然離れて居ない、「巖壁」は構圖も面白くない(水)金龍山伊三郎氏(八)ひる、色は暖いが赤つぽい色が餘り多過ぎる、綠色も重く早春の感に乏しい、遠い★綠の部分も曖昧である。
 

鹽獄署歸り坂本繁次郞

 瀧澤靜雄氏寒い色とボデイカラーの細工は氏の畫の附き物である、(九)白樺部分々々は中々旨く出來て居るが全體としては、こせついてゐて、五月蠅い、(十)泰山木達者に描かれてある、旨く出來ているが馬鹿に陰氣だ。(十一)深山の流水、昨夏信州上高地で寫生されたものである、私の「綠色の流」の中の一部分だ、上高地中で私の一番好きな場所で、勢込んで流るゝ濃い美しい綠色の水の中に底の岩や空の反射で色々な模樣に成つて流れて居る、岩に激した水は白く碎けて泡立つてゐる、隙さえあれば其水に見入つて居たが到底筆を下す勇氣は出なかつた、然るに氏が其至難なる處を進んで描かれた勇氣に敬服せざるを得ない。ある感じも出ている、美しく仕上つているが距離も見えず、其場所の大きな感じも、水の濕ひも乏しいやうだ(十二)合小徳屋、色は寒いが落ち付いてゐる、手前の蔭の中の木を如何かしたらよかつた。(十四)影の水この畫に就いては氏も餘程自信を持つて居るらしいが、私には夫程に思へない、樂に出來上つて居る事も事實である、上手の森の中も良いが、水の色も濕ひに乏しく、寒く嫌らしい色が目立つ、(一四一)春の野邊、感じのみでなく、描き方まで朧氣である。(赤)
 此の濕ひのないがさついた騒々しい點は、何時も君の繪に見る通有の大なる缺點であつて殊に水に於て其の甚しきを見る、極端ではあるが濡れて居る流動體の物とは何うしても思ヘないのである、此處は大いに君の一考を煩はしたいと思ふ、靜物の泰山木は實物が固い花ではあるが今少し柔い方がよいと思ふ、色も寒く重々しい(水)
 私は同氏の絡が年々小刀細工がうまくなつて行くといふ事しきや思へない。描かうと思つた氣持も充分出て居ない、然し繪をまとめるとか技巧とかいふ點については、上手といふより外はあるまい。(後)
 中林僊氏以前の作品にはも少し活氣が有つたと思ふ。物の見方は粗では有つたが今度の出品の行き方よりは遙かに勝れて居つた。(十三)初秋構圖はまとまつては居るが、全體にかゝつてゐる黄色は卑しげな色だ。物の見方や調子の見方も不親切だ、前景の草原にも一層工夫して貰ひ度かつた。(十九)伊豆の山總じて不親切な描方て調子も不充分だ、木に圓味もなく、木も岩も同じ色の日が當つてゐる、両者共ワツトマン半切大だ、之れ程の作品に成つたら、も少し勉めて貰ひ度い、熱心なる畫には拙くとも同情が出來るものだ。(赤)
 

直江津河口小杉未醒

 青年は青年らしく今少し元氣のあるものを見せて貰ひ度い、徒らに畫面の大なる斗りが元氣ではない小心翼々たるものでなく力のある實のある者を望むのである(水)
 氏の繪を見ると、いつも中林式のぼたぼたした筆しきや頭に殘らない。それにいやに大家ぶつた描き方は御免だ、此度の繪は特に悪るい樣だ。(後)
 中俣正雄氏(十五)麗かなる日、
 市村實氏(十七)椿、少さい畫であるが達者な筆は一寸人の目を引く。
 望月省三氏この頃の氏の作品には、黒ぽい色が餘程少なくなつて來た。それが必ずしも良い傾向で有うかは疑問である、個性と云ふ事はどこ迄も尊重して貰ひたい、之れは氏一個人に言ふわけではない。(十八)冬の日以前に見た時より餘程寒く思はれる、畫面の左の方が構圖上物足りない。(十九)石灰小屋氏の出品五點の中の佳作である、何物も大づかみにやりつぱなしにして有る處が面白い、色もよいが右の方の蔭の中に一段の注意が欲しかつた。(二〇)越中島色紙ヘ畫いたもの、面白く描かうとして失敗したと云ふ趣がある、何か物足りない。
 (二一)納屋面白い構圖であるが色が寒い、人物の形も餘り亂棒過ぎた、せめて家の内と外の光りに一段の變化が有つたなら餘程面白かつたと思はれる。(二二)花散る畑春の朧げな心持が出てゐる、空も花も畑も弱い調子で心よい調和をなしてゐる。(赤)
 

しけ前大橋正堯

 私は石灰小屋に同意しかねる。色もわざとらしく以前の君の繪に見る落付いた心持よい感じが見られない、納屋は、會場に出て、著しく見劣りがする、小品三點弱くはあるが感じがよいと思った。(水)
 同氏の繪も昨年の夏以來著しく色彩に變化を來たされた樣である。正直に云ヘば以前の氏の作は不器用な、朴直な、暗い、だがこう、なんとなく懷かしい繪だつた。それが近頃は筆には才氣が溢れて、好んで所謂ハイカラな色を用ひられる、調子も、よわく感じもよくなつた。所が私には、其の變り方が何うも自然から來た樣に思へない、これは誤りかもしれないが、氏は、わざと調子を弱くして感をよくし、又見えないハイカラな色迄も、つけられるではないかと思ふ。もつと眞面目に深くお互ひに研究したいものである。繪はどれもよく、まとまつて、筆も働いて居る。(水)
 

別府の池吉田博

 坂本繋次郎氏氏は常に自分と云ふものを通して自然を見てゐる。故に氏の作品に表はるゝものは自然の自然ではなく、氏の自然である、個性の表現である、自己を沒却し、新らしく新らしくと皮想な模擬に浮き身をやつす輩の作品に何の生命があらう。
 氏の藝術に對する眞摯な態度、自己の表現、すべて私に尊敬の念を與へる。(二三)監獄署歸り、暮方の草原を一人家路にれどる寂し味のある畫だ、遠く見ゆる墓石、監獄署歸りと題されたのも、之の畫に一倍感じを深くする艮い畫だ、(二四)夜汽車暖い濕ひの有る色の感じがよい。(二五)紙梳き場(二六)職工共にチョークで描いた上に淡彩を施せしもの。(二七)牛奇麗に描かうと勉むる人の多い中に、平然とこの樣なものを公にし得る氏の心持を喜しく思ふ、一面に含まれている赤黄色は騒々しい感じを起さす、牛の形等に就いても非難する點はあるが、此の畫を見て居ると其樣な事に目はつけて居たく無くなる。前景の茨の巻きついて居る棚等は面白く出來てゐる。(二八)日暮里停車場私の好な畫だ、全體につゝまれてゐる薄暗い青い色、柵に寄つて一人の小年が線路の上に見入つてゐる、形等に何等の拘泥もなく、其時の深い印象が畫面に表はされて自分達に迄傳へらるゝ樣に思はれる。(赤)
 小杉未醒氏と共に、今回氏が出品された小品は氏が今迄に見る大作よりも遙かに面白いものである、就中、紙漉き場はよいと思つた、全然市氣を離れた捉はれない描寫は、人をして飽かず引付ける力を持つてゐる、牛は捉まへ處も面白く今少し何うにかなつたならば大變よくなるだらうと思ふ。小品數點それぞれ深い意味を見る。(水)
 坂本氏の諸作は、私にとつては最も懷しい、最も嬉しい、最も交渉深きものであつた。其の藝術に對する態度の、眞面目なる點に於て、自然に對する摯着心の深き事に於て、溢るゝばかりの情味に於て、場中を通じて私の最も好きな繪である。
 

或る日の終り赤城泰舒

 小杉未醒氏すべて鉛筆のスケッチに淡彩を施されしもの、餘り見ごたへのするものではないが、自由な氏獨殊な線に非常な面白味がある。(二九)南山の麓(三〇)景福宮(三一)仁王山下(三二)龍山津(三三)清水のみなとの一、(三四)釜山鎭(三五)釜山港(三六)關帝廟、(三七)直江津河口、(三八)鹽原の夏(三九)清水のみなとの二、(四〇)東大門の十二點ある、其中私の好きなのは龍山津、清水のみなとの一、釜山港、直江津河口等である(赤)
 氏が別室の油繪數點は、此處の小品に比して非常に劣るものといひ度い、落付いた色彩達者な線の簡單なスケッチであるが少なからず私を悦ばせる、就中龍山津、直江津河口は最も勝れて居ると思ふ、之れに亜いで南山の麓釜山港等よいと思つた(水)
 大橋正堯氏大作は澤山有るが好い作品とは云へない、以前のものに遙か劣つて居る、距離が有りそうに見えて、ないのは色の堅い爲では無からうか(四一)谷間の秋黄色い色も餘り面白くなく調子も弱い、面の説明も殊に不充分だ、随分大きな草も生ヘている。(四二)伊豆白濱一寸面白い構圖だ、中々細い觀察はしてあるが、遠景の空や、海や、砂地等少しも距離が見えない、出品四點の中では佳作であらう。(四三)秋の山家第一の大作、可成まとまつてはゐるが、うるさい、物も淺薄で色も堅い。(四四)しけ前インヂゴーの樣な、蔭の綠色は不愉快極まる。(赤)
 中林氏と共につまらない努力といふより外致し方がない、無意味な、機械的な作品には藝術としての價値は認められないのである。(水)
 

森の家尾崎定次郎

 たゞきれい事で行かふといふ繪で私にはちつとも有りがたくない。(後)
 板倉賛治氏、(四五)海藻(四六)御宿の海岸奇麗ではあるが調子が出來て居ない。
 吉田博氏この會の水彩畫の一大勢力である、氏の作品の少かつたのは殘念である、二枚とも八ッ切の簡單なスケッチである。(四七)白山眺望美しい色で連景の山はよいが、前景の草原は餘り堅過ぎはしまいか。(四八)別府の池全體に赤い土の色と、青い煙の色とで覆はれて居る畫だ、別府と云ふ處はこんな處かと思はれる。(赤)
 さすがに技巧は、なれたものだ。白山眺望は雄大な感じにとぼしい。(後)
 吉田ふじを氏家庭の人である、氏の出品の少ないのは無理も取い。(四九)朝日の室丁寧に親切に描かれてある、色の堅い爲もあらうか人形の樣に見える、動き出しそうにも見えない。大森正行氏(五〇)暮れ行く山外國の版畫にでも見る樣な美しい畫だ、(赤)
 日の當つた部分は面白いと思ふが影の部に尚研究を要する(水)
 奥村態四郎氏(五一)二月の庭色々な物がうるさ過ぎる、調子が調つて物に落ち付きがついたらいゝだらう。(五二)ほどきもの物足りないが前者よりは簡單な丈見いゝ、樣や疊はもつと暗くてよいと思はれる。(赤)
 

冬吉崎勝

 色々の物質を一ツ一ツ氣にして現はさんとしたる爲め、色も調子もあまりに固く、物と物との融和が取れて居ない、小品「ほときもの」は簡單で面白い(水)
 赤城泰舒氏日本水彩畫會に於て奥行の知れない人物を君となす、將來限りなく發展すべき頭を持つた人である、其作品の暖いそして神秘的な色調、飾り氣のない筆致は決して派手ではないが、君の繪に對すると妙に人を引付ける力があつてそれが幾度も見るに從つて益々其の力が大きくなつて來るのである。それが何の作用であるかといふ事は私にも別らない、只他の人に見ない不思議な力として認めて居るのである、出品七點、「放牧場の一部及冬をあげる、殊に前者に於て其勝れるを見る。「冬」は屋根や地面の影に今一工夫あつれならば非常によいと思ふが惜しいかな少し墨つぼい、而し淋しい冬の光りはよく出て居る、「深山の牧場」は水に注意を加へたら尚よかつたらうと思はれた、他の小品四點何れも私には物足りなく感ずる。(水)
 

夜の顔水野以文

 赤城氏の作品の前に立つ芝常に、愉快なる色彩にチヤアームされる。そして無邪氣な、わざとらしい處のないのは嬉しい。一體私は同氏の作品を通じて小品より大作の方が好きである。小品も面白いが今少し鋭い處がほしい。此度の繪では、「朝」は色の氣持がよく「冬」は神々しい、「森の細道」は輕く、「深山の牧場」は美しいが私の一番好きなのは「放牧場の回部」だ。見渡す一面の白樺の林で、背後はおちついた氣持のよい森だ、其の間を赤城氏の夢想から切りぬけ出た樣な半がさまよつて居る、前景の水溜には靜かに樺の木を寫して居る。神秘的な空氣は前體を包んで、私も何だかこうした處へ遊びに行つて見たくなった。
 放牧場の一部についで好きなのは「或日の終り」である。繪は未成品だから、しまりがたりない樣であるが、空も氣持よく中央の敎會も背後の樹木も前景の草原も總てが沈點して居る樣で、其の中を、一日の樂しみをつくした小供がたゞ一人我が家へたどつて行く、何んといふ懷しい繪だらう、(後)
 寺田季一氏(六〇)夜の靜物私の好きな畫の一つだ、心持よい黄色と、赤の調和も面白い。(赤)
 私は坂本氏と同じ意味に於て寺田氏の作品を尊重する、夜の靜けさもよく表はれてゐる、好きな繪の一つだ。(後)
 硲伊之助氏氏は研究所の生徒として一風變つた才を持て居る人だ、自然に拘束されぬ自由な描方に才氣が溢れてゐる、年齒尚若く大に自重せられん事を望む。(六一)多摩川氏の作品の中にはこの作に勝る物が有つたのに出品されなかつた事を殘念に思ふ此上一層突込んで貰ひ度い、
 尾崎定次郎氏、(六二)森の家をだやかな前景の草原は面白い此上森の中に一段の研究を加ヘられたらよかつたと思ふ、(赤)
 骨の折れた繪ではあるが少し全體が重々しい(水)
 吉崎勝氏(六三)冬熱心な努力は畫面に溢れてゐる、色の強い畫で遠景の輝いた建物等も之の畫に或る力を與ヘてゐる屋根の中の紫色も餘りきつ過ぎはしまいか、(六四)鼠坂まとまつてはゐるが前者程の力はない、(赤)
 

印度洋石井柏亭

 「鼠坂」は色に落付がない、「冬」は細かいものを可成氣にして居るが少しもうるさくなく、連景等面白い(水)
 松原一風氏(六五)小豆島の遠望、(六六)白地の渡兩者とも圖案風に描かれてあるが其のわりにしまりがない(赤)
 色が貧しく不親切である(水)
 宮地景樹氏、(六七)しもがれ奇麗過る、色も單調で、物の一つ一つ固りに見えるのも妙だ。(赤)
 物の説明を充分現はさんとして、却てどれもこれも皆同じ樣なものとなつてしまつた、奇麗に仕上げるといふ外何事をも考へて居ない樣に思はれる。(水)
 市川七策氏(六八)夕ぐれ外國の版畫にでも有りそうな場所だ、
 水野以文氏、(六九)夜の顏(習作)一點一畫もゆるかせにせぬ氏の性格に對して感服せざるを得ない、故に氏の作品にはやりつぱなしと云ふ事は見られない、デツサンも良く出來ているが夜としては色の心持が物足りない、黄色の危險なる事を考へられて、あらかじめ用心されたのではあるまいか(七〇)久世山下より、夕方の心持は出でゐる、綠の色も美しく草原にも濕ひか有つていゝ、遠景の距離が乏しく見える。(赤)
 私は水野氏の時流に拘泥せずして、あく迄でも自分の所信を貫徹しようと云ふ立派な、眞面目な精神に敬意を表する。そして、いつもデツサンのしつかりして居るのは、たのもしい。「久世山下より」は、よく久世山のローカルカラーが出て居る。(後)
 

草花小山周次

 石井柏亭氏旅行先より送りこされた最近の作品が澤山陳列されてある。總べてで廿四點、即興的な澁滞なき筆に敬服せざるを得ない、氏の作品には一枚一枚の變化に乏しい、内地で描かれた作品も外國のそれも皆同じ心持だ、曇つた日も晴れた日も餘り連ひはない、私は人物の描かれたものの方が好きだ、顏にも衣服にも無造作につけられたブラツシは、生ている。(七一)ワンサンヌの池四ッ切の竪畫で、靜かに流るゝ池畔のまばらな草の上に黒いスカートを附けれ一人の婦人が座つて水の面に見入つている。靜かな趣が見える、中景の大きな筆で描かれた岸の樹本も何んとなく面白い。(七二)古橋(七三)とき色の衣服前者は古橋と樹木を背景にして椅子によれる婦人、後者は木の茂みと草花を背景にしてとき色の衣服をつけたる婦人、共に輕く出來てゐるが両者共ワンサンヌの池の面白さは到底味はれない。(七四)カイローモスタ風景として私の好きな一つだ、暗い景色の荒廢した土地のかなたに、寺の塔が聳えてゐる、黒衣服を風に飜して驅けて來る只一人の點景もよく動いている、荒れはてた樣な此の畫に一しほ感じを深くしてゐる。(七五)イソラチベリーナ(七六)アスシジの日曜共に輕いスケッチである、距離や日光等と云ふものには深い注意が拂はれてゐない、(七七)印度洋甲板の上でインヂアンの顏を寫生せられしもの、蔭になつた黒い顏も面白く、衣服も簡單に出來てゐる、バツクの海も離れてゐる、面白い畫だ。(七八)フロレンス(七九)運河(八〇)少女赤い色の騒々しいのや、前に出た手の堅い等、私に嫌氣を起させた。(八一)ルイゾン(八二)ヒストヤ(八三)ムノランルーチ燈の色が氣味が惡い、これも嫌な畫だ。(一四)イル、ド、ラ、ジヤツト(八五)ムードンの森(八六)積藁暖い日の光りは、全體に氣持がいゝが堅い藁だ。(八七)日蔭草原の木の蔭に小女が座つてゐる畫だ、人物もよくバツクとの關係も氣に入つた、好きな畫だ。(八八)モンチニー(八九)カイロー近郊(九〇)ヱトルリヤ(九一)フヰソーレ行列してゐる木も誠に面白く描きこなされてある、其下に群集している點景もよく動いてゐる、輝いた森の中に赤い衣服もこの畫に力を加へてゐる、喜ばしい畫だ。(九二)ナポリの丘上建物がまがつてゐる。(九三)ナポリの女形も面白くなく顏の蔭もいやだ。(九四)巴里近郊(赤)
 

柿の木榎本滋

 

椿眞野紀太郎

 全體を通じて主觀の勝つた、そして活氣のある繪ではあるが、ローカルカラーとか空氣たとかいふものは伺ふ事が出來ない。
 氏の常に唱へて居らるゝ自然に拘束されない、自由な描寫は遂に自然に遠さかつた、單に石井氏其の人に對するといふ感じしか興らない。「ナポリの丘上」等は小建築に題財を取つたものに面白いものを見受けるけれ共、「運河」や、「ムードンの森」の如きに至つては随分拙劣なものである。こういふものにわざわざ石井柏亭氏を煩はすを要しない、少なくとも彼の地を踏むの必要を認めぬのである。(水)
 始めに見た時には石井氏の作はどれも、面白いと思つた、處が二度三度と見るに及んで、何だかあつけない樣な氣がする。
 もう少し深く突込んでもらひたい。それて同氏は常にローカルカラーをやかましくいはれる樣だが、此度の繪などあまり日本で描かれたのと變りのない樣な氣がする。然し技巧の熟練構圖のうまさにはたゞたゞ驚歎の外はない。(後)
 吉田豐氏(九五)月島の夕荒い描き方に注意の足りなかつた爲か、物が平板に見える。(九六)瓦斯の下の女(習作)ワツトマン半切の竪畫だ。全體に黄味のかゝつた弱い畫で夜の趣が見える、しまりのない事、顏の色の堅い事、バックの離れて居ない事等が缺點である。(九九)赤い本とシネラリヤいゝ畫だ簡單で面白い、バックの色はどうかと思はれる、餘り單純すぎると思ふ。(赤)
 三點の内靜物は尤も勝れて居る、恐らく場中を通して佳作として算へる、見方も親切で嬉しい、大作人物は色があまりに誇張しすぎてある點を好まぬ、而し形はよい。(水)
 「赤い本とシネラリヤ」は、吉田氏の是迄の作の中での傑作だと思ふ。やさしい色の調和がうれしい。(後)
 榎本滋氏(九七)靜物丁度中央に、白い花のたつた一つある畫だ、深味が足りない。(九八)秋蕎麥の頃氏の平常の作の中では弱い方だ、綠が總て右の下の方へ流れて居る、前景が物足りない。(一〇二)柿の木一面に柿の木で覆はれて上部に一寸遠景の家等の見える奇拔な圖だ、色もいゝが此上深味が有つたら一層よかつたと思ふ。(赤)
 

夏相田寅彦

 『柿の木』に氏の元氣を伺ふ事が出來る、今少し物と物とが離れたなら尚よいと思ふが、かゝる場合の距離の説明は非常に困難を感ずるものであるから大いに同情する、靜物はよい。(水)
 榎本氏の中では『柿の木』が一番よいが、私の好きな場所は、むしろ『秋蕎麥の頃』だ、左のはぢに田舎家が一棟あつて、南瓜の花が咲いて居る、前面はやはらかい草原で中央に本が立つている。右の方は蕎麥の花でうまつで、遠景は山でかこはれてゐる。日は畫面全體にあたつて平凡だが、平和な田舎の長閑けさを表はすには豐かな題材だ。全體が堅いのとしまりのないのと、左の方の連景の山の線の氣になるのは大なる缺點だらう。(後)
 小山周次氏(一〇一)草花弱い空氣の中に強い赤い花のある面白い畫だ、筆の大まかな爲か堅く見える。(赤)
 色が單調ではあるまいか。(水)
 眞野紀太郎氏(一〇〇)水仙の花失敗の作だ。全體の形も面白くなく葉の綠色も寒い、バックの紫と綠の調和も如何かと思はれる。(一〇三)椿手際に出來てゐるが色が堅く單純だ。
 (一一五)白椿畫面が大きいと云ふ丈で前のものと同じ事である。(赤)
 色の寒く固いのは、何の繪にも通有で少なからず美感を害ふ。(水)
 掛布艮胤氏(一〇四)桃弱く丁寧に桃が描かれてある、圓味も出てゐる、尚一工夫されたら一層面白く成つたらうと思はれる。(赤)
 

冬景武田芳雄

 面白い試みである、弱い調子の内に物の丸味も、物質の説明もよく出て居る。色も何となく好ましく思ふ。(水)
 相田寅彦氏(一〇五)夏氏の今度の出品は非常に振はなかつた、水彩は只之れ一點のみである、ワツトマン半切の横畫で昨夏足尾附近での作品であるそうだ。器用な手際を餘り見せ過ぎはせぬかと思はれる。水もよく透明してゐる。岩にもよく日が當つてゐるけれどもそれ等は總てわざとらしいと云ふ事を免るる事は出來ない。器用な氏の才は岩も水も皆筆の先で美しく描き上げてしまふ、一見して奇麗だと思ふに過ぎないで其れに作ふ情調といふものば味はふ事が出來ない、只不自然な無理な點計が目につくのである、この畫は氏の缺點計り集めたいはゞ失敗の作と思ふ、私は氏に器用なる筆先の細工を捨てられん事を切に希望する。(赤)
 同感であるそして全體の統一が缺けて居ると思ふ。(水)
 武田芳雄氏(一〇六)冬景空が余り暗く重過ぎはするが、寒國の冬の忍ばれる面自い畫だ。(一〇七)初春全體に暖い豐かな色がよく、光つている白壁は、弱い調子にしまりをつけている。
 

風の日磯部忠一

 磯部忠一氏(一〇八)山村の夕暮餘り描き過ぎて活氣に乏しい、氏の作品の中では二三年前の「靜澗」時代のものが面白かつた樣に思はれる。(一〇九)行徳の初秋(一一〇)風の日面白い作品だ、空の雲が堅過ぎると思ふ。(一一一)斜陽(一一二)秋氏の出品中の佳作の一つだ、黄色い色にも他のもの程嫌味に見えない。(赤)
 山村の夕暮は骨が折れて居るが、全體が、わざとらしくて點景人物の竿立ちも面白くない。「斜陽」といふ繪はこうした場所の實感を起さした。(後)
 後藤工志氏(一一三)月島大きな筆や自然の見方に非常によい處がある特色を備へた人だ。前景は面白いが、夕方の空氣に就いて一段注意がされたかつた、これでは只暗い丈の樣に思はれる。(一一四)坂本公園紅葉した赤い葉や空等の調和に一通りならぬ面白さが味はれる。點景も良くきいている、少し書き足りなく思はるゝ部分もあるが兎に角佳作である。(赤)
 勉強家なる氏は、此處に僅かに小品二點を出せるのみ、而し小品の佳作は大きな無意味な駄作に勝る事言を待たない他の作家が競ふて、あらひさらひ出したがる中に、美しい尚幾多の作品を有しながら、どこまでも自信のある作品丈しか出陳されない樣にして居る點は大いに學ぶべきであらうと思ふ、宜なる哉其繪は小品とはいへ場中誠に注目に値ひする佳作たるを失はない、「月島」コンポジションもよく筆致にも勢があつてよい、場中を通して私の好ましき繪である。「坂本公園」も豐富な色調で見飽きのしない繪である。(水)
 榎本已之助氏(一一六)廢驛(一一九)習作
 西村新一郎氏(一一七)桑園今の時代の高とも思ヘない。
 奥村博氏(一一八)四月うるさい畫だ、全體に紙を削つたのも何んの爲だかわからない。
 木村梁一氏(一二〇)赤松
 

靜物夏目七策

 夏目七策氏(一二一)靜物氏も今年は一向に振はなかつた、只丁寧に寫生したと云ふに過ぎない、皿も布も厚い。
 中川八郎氏(一二二)砂丘大橋氏の伊豆白濱と同じ位置である、氣のきいた事がしてある、海の色も、夕立でも來たかの如く海の一部の騒いで居るのも面白い、靜かに長く碎けて居る波も輕妙なものだ。(一二三)伊豆伊東山や空は面白いが前景は余りうるさい。(一二四)蜜柑畑樹の綠が毒々しい。(一二五)夏の霞浦附近(一二六)漁村うるさい。(一二七)菊畑(一二八)夏の湖畔樹木も水も大きな筆が何んとなく面白い、「夏の霞浦附近」と似て居るが、私はこの方をとる。(一二九)蜜柑の樹日の當つた綠りも、遠景の海の色も心持いゝ。(一三〇)伊豆白濱(一三一)水車總じて余り感服さるゝ作品に乏しい、枯れた筆を以て無意識に自然が寫されてあると云ひ度い、少しは力瘤の入る樣な作品を見せて貰ひ度と思ふ。(赤)
 氏の作品は一見何等の淀みもなくすらすらと出來て居るものから、觀者をして只醉はしめるのであるが偖其前を過ぎ去つて後、頭には何等の印象をも止めないのである。何の畫を見ても格別の出所もなく缺點もない只無難の作といふ丈である、器用な澁滞のない樂な繪はやがて淺薄に流れて、觀者をして直ちに飽かしめて仕舞ふのである。(水)
 輕い筆で上手に描いてあるといふだけのものだ。(後)
 

相模灘藤島英輔

 藤島英輔氏出品の數は多いが振はない(一三二)三崎の夕照(一三三)瓦燒場黄色い色が面白い感じを與ヘる(一三四)穗高山山の色ほ良いが中景の森は堅く、山との關係もどうかと思はれる(一三五)相模灘單純ではあるが筆も勢があつていゝ、岩に一層注意が拂はれたらよいと思ふ(一三六)横濱之れは以前に本誌に原色版として挿入された横濱代官坂と云ふ畫である、遠景は面白い(一三七)城ヶ島佳作である、日の當つた山もよく、強い、暗い海も山の黄色に對して面白い。(一三八)(筏秩父)(一三九)暮色(赤)
 筆致の輕妙といふ事を唱へて居らるゝ氏の作品は、矢張、氏をしてこういふものを成さしめるのであると首肯かれる。「横濱」「城ヶ島」「三崎の夕照」等は面白いと思ふが、「瓦燒場」等に至ると殆んど人が違ふ程劣つて居る。(水)
 藤島氏の繪は「久保澤の秋」時代の方が好きだ。此度の出品の中では私も「城ヶ島」がいゝと思ふ。(後)
 鶴田吾耶氏(一四〇)男の肖像水彩畫中の佳作の一に數ヘらるべきものである強く健實な描方に或力がこもつてゐる、距離と云ふ事は六ヶ敷い事と見えてやはり平板な感じがする。
 平木政次氏(一四二)雨後(一四三)小雨
 柳田謙吉氏(一四四)小娘
 渡邊六郎氏(一四五)三本木(一四六)伊香保の春アマチューアとして是丈の仕事をさる、氏を感服せざるを得ない(一五二)新船松町(パステル)距離や力が欲しい。
 高村眞夫氏(二一〇)靜物(パステル)(二一一)裸體「スタデー」(パステル)動さの無い感じの惡い畫だ。
 

蜜柑の樹中川八郎

 河上左京氏(三六三)或る女(パステル)貧弱である。(赤)
 總じてパステルに綠なものはない、高村氏の如き何の意味でこういふものを描かれるのか、其心意のある處を疑はざるを得ない。(水)
 遣作室
 第六室には故大下藤次郎先生の遺作が陳列されてある、(三七六)穂高の殘雲(三七七)春の朝(別府)(三七八)多摩川原の夕(三七九)水車(三八〇)漁村(三八一)榛名(1)(三八二)荒川の朝(三八三)檜原湖(三八四)十和田湖(1)(三八五)蓮池(三八六)十和田湖畔の秋(三八七)麓の流れ(三八八)御嶽山上(三八九)赤城大沼(三九〇)植物園(三九一)多摩川の水車小屋(三九二)榛名(2)(三九三)背戸(三九四)赤城の秋(三九五)十和田湖(2)(三九六)樫の「スタデー」(三九七)紫陽花(三九八)川(三九九)柳(四〇〇)山村の夏(四〇一)庭の隅(四〇二)沼のほとり(四〇三)榛名(3)(四〇四)川口湖(四〇五)黄昏の宍道河(二〇六)蓮(四〇七)日ざかり
 此等が先生の遺作の中の傑出したものと云ふ譯ではない、大下家に所有せらるゝものや、人の手に渡つて居るものゝ中にもよい作品は多くあるが、會場の都合や準備する時日の餘裕の乏しかつた爲に、尤も手數を要せざる、大下家に所有せらるゝものの中から撰み出したのである、思ふ樣な作品を出品する事も出來なかつたのは誠に殘念な次第である。
 

三木本渡邊六郵

 總てを通じて眞面目な温厚なる氣分が表はれてゐる、如何樣な作品にも親切を極めてあつて、其畫面に向へぼ直に先生の性格の一片を伺ふ事が出來るのである。
 世に阿ねる事もなく己を知つて平然として迷ふ事もなく己の進む處の道に勉められた、實に先生は自覺の人であつた、浮華輕佻なる今の世に得安からざる人であつた、前の日をかへり見ては先生に對する愛慕尊敬の念に堪えないのである。
 其畫風には色々な變遷があつた、總じて大作は少なかつた、多く小品を好まれ又小品に於いて成功された、先生は畫面の大きいと云ふ事には餘り同情が無かつたのである、大作は必ずしも畫面の大小を意味するに非ず、繪の良否こそ其區別の附せらる可きもので有るとは常に先生の口から洩れた言葉であつた。
 先生の主義には前後を通じて一貫した者があつたけれども、其描方には種々な變りが有つた、最も初めの作品には接する事を得なかつたので知る由もないが、其後の作品に就いて描方の變り方によつて見ると、ボデーカラーを多く用ひられた時代、次がボデーカラーの少なくなりし時代、次が透明色を多く用ひられた時代、其から最近には色が華かに而して弱い調子になつた。前記出品の中「多摩川原の夕」「植物園」「柳」等は最初の時代の著しい代表作で「檜原湖」「赤城大沼」「背戸」「赤城の秋」等は第二の時代の代表作「山村の夏」「川口湖」「日ぎかり」「榛名」等は第三の時代の代表作「春の朝」「並黄昏の宍道湖」並に展覽會には出品せられなかつたが昨年飯坂地方に旅行せられた頃の作品は最近の畫風を代表さるるものであると思ふ。
 「蓮池」「十和田湖畔の秋」「赤城大沼」「植物園」「背戸」「赤城の秋」「樫の「スタデー」「柳」「山村の夏」「黄昏の宍道湖」等はとりわけ立派なる作品と思ふ。(赤)
○本號に寫眞版として挿入した畫は必ずしも場中の佳作であると云ふ譯ではない、この外にもよい作品はあるが比較的撮影し安き作品を挿入したのである。尚原色版として追號挿入す可き作品は吉田ふじを氏「朝日の官室」寺田季一氏「夜の靜物」石井滿吉氏「ワンサンスの池」吉田豐氏「シネラリヤと赤い本」後藤工志氏「坂本公園」中川八郎氏「夏の湖畔」等である、然し賣約等の都合上不得止挿入不可能の畫は其の代りとして他の作品を挿入する考てある。
 大下先生の遺作も毎號一點つゞ挿入する筈である。(赤)
 矢吹高尚堂發行の第十回太平洋畫會展覽會カタログ(定價四十五銭)御望みの方は直接本會へ御照會被下度、みづゑ讀者に限り送料共特價金三十八銭にて取次仕るべく候。

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