みづゑの續刊に就て


『みづゑ』第八十八
明治45年6月3日

 「みづゑ」の續刊に就いて、少し申し述べたいことがある。今は早や昔の繰言となるが、去年の秋闌けて菊の花亂るゝ十月に、本誌を創刊せられ、且其主宰者として絶ヘざる努力を續けられて居た大下先生は、突然とも本當の突然に逝き給ふた。「みづゑ」は眞に先生が愛兒であつた。先生は「みづゑ」の生命で大黒柱であつた。其大黒柱をば意外にも又究然にも失ふたる「みづゑ」は、同時に、大變動を受けなければならなかつた。
 否、變動所ではない。本紙の存廢生死に關する問題であつた。
 一時は、大黒柱の無き今日、「みづゑ」の續刊は問題にならぬとの説もあつた。大下先生を生命としたる本誌は、先生の長逝と共に終局を告げねばならぬとの説もあつた。然し同時に、また、先生が短いとは云いながら、充實せる生涯に、夏の暑を凌ぎ、春の足る日を割きまた冬の風に手を凍らせながら、熱血を注ざ、眞誠を竭して散布薫育せられたる水彩畫趣味の芽生を捨つるに忍びるか、との聲をあつた。又地方の讀者中には、遥々書を飛ばして、吾々を奈何せん、と★ばれた人も多くあつた。
 異説紛々、議論百出で、何れとも決斷のつき兼ねたる吾々は、此熱心なる眞摯なる讀者の聲を耳にすると共に、此野の叫びを馬耳東風とする事が出來なくなつた。吾々とても畫の大好春な連中である。足らぬ乍ら彩管を手にした經驗ある身であるから、吾等と同じ境涯にある人に取つて、「みづゑ」が如何ばかり力になるか、如何に頼りと、そして、樂しみとになるか、よく了解することを得る。初めてワットマンを怖る怖る買ふた時代から、如何に待遠しく、毎月の三日を指折り數へて俟ちあぐんだか――聯想の糸は覺えず手繰られて、同情は所々に點在するアマチューア、アーティストに向ふた。廢刊は問題にならなくなつて來た。
 彌々續刊と決しると、第二の問題が直樣と表はれて來る。即も本誌を如何にして、又誰が、編輯し刊行して行くか、――是が仲々の難問題であつた。
 最初は、諸君御承知の、そして春鳥會と混同せられて一方ならぬ迷惑を双方に蒙つたる春鳥堂の主人北山清太郎氏が、親切にも引受けると云ふてくれた。非常に勤勉に活動してくれて、吾々は今も尚其盡★に感謝して居るが、不幸にも、同氏は、己が理想と、「みづゑ」の理想と一致せぬ所よりよりして、僅か三四ヶ月にて辭せられた。北山氏は、其理想を實現せられる爲め、現今は、或協會とかを對立ぜられて、雜誌を發行せられて居る事と聞き及んだ。同誌の發展は、吾人も同樣に、切に希望する所である。
 偖て、北山氏を失ふた「みつゑ」は一時途方に暮れたが、幸ひ、大下先生の親友であつた、山岳家の小島烏水氏が、御同情から一時引受けてやつて下さる事となつたから、別に特別の苦境に陷る事無くして、今に及んだのである。
 所が烏水氏とても、繪畫には特別の因縁もない人であり、又非常に多忙な方であるかち、永く御頼みする事が出來る筈が無い。如何はせんと思ひ惑んで居た所、今般、至極適當な人を得たのであつて、吾々は之を諸君に告ぐる欣ぶのである。
 打開けて云へば、編輯は大體大下家の方々も熟練せられて來たがら、其所ぞやる事にして、重なる點に就ては、矢代幸雄氏に、相談と助力とを御依頼することが出來る樣になつたのでうむ。矢代氏は、帝大文科の入にて、畫には一方ならぬ趣味を持て居られる事は、諸君も御承知の事であらふ。二三の外國語の素養も充分あられるから、歐来思潮の新しい傾向にも觸れて居られるし、又一方、自ら畫筆を執つて居られるから、畫家の苦心を了解し、岡目八目流の美術批評家の知り得ぬ畫家に對する同情を有つて居られる、本誌編輯顧問としては、誠に、もつて來いの人であらふ。
 次に、「みづゑ」の繪畫の事に就いては、赤城泰舒氏に御頼みする事になつた。同氏の人物や、又畫才に就いては、今更喋々する迄も無からふ。展覽會の批評も出やう。時には講話も出やう。又、幽遽閑雅の地に、自然の美に同化しつゝ、麗しき筆を揮ふ時の思想も出やう。是等は眞に諸君を唸らせる事に相違あるまい。又春鳥會員の月々の繪畫批評も、赤城氏に同じく依頼したから、此點こそ特に諸君は申し分が無いであらふと思はれる。匿名を幸いに飛でもない奴が、飛んでもない批評がましき事もなすが、普通である今日、吾々が、此所に赤城氏が此務めに當ってくれる事を告げるは、非常に嬉しき次第である。本誌發展とか何とかに取つて便利と云ふのではない。熱心なる諸君に満足を與へられる事が喜ばしいのである。
 其他知名の畫伯達が、其所屬團體の如何に關らず、本誌の賛助員となつで下され、時々御話や、原稿を賜はれる等は此所に態々廣告がましく費すまい。元來、世間の甚大なる同情の下に立つ「みづゑ」である。主腦になつて、統一してくれる人さヘ得れば機械は圓滑に運轉して行くのである。
 回顧すれば、昨年の十一月號以來の困難は非常なものであつた。過渡時代――如何に苦しき經過であつたらう、舊柱石、忽ちに枉屈して、新生命未だ起らず、主腦を缺いた存在は、冗漫散逸に流れざるを得ない。殘念ながら、吾々すらも十二月號、一月號、二月號の不整頓不統一を認めざるわけには行かなかつた。斯る遺憾の思ひが胸に起ると共に、其缺點を忍んで以前と變らず愛讀を續けてくれられた諸彦の、深厚なる同情を沁みじみ感謝する。而しで、其感謝の念が強い文、夫れ丈、今日の希望ある告白をなし得るに到つたことを欣ぶのである。今や、其の過渡時代を經過し、講事其緒に就き初めた。大木は秋の嵐に思ひがけなく倒れて、皆は迷つた。人の辛らさ、氷の冷たさを喞つた冬籠も僅かに終りを告げた。陽春の熙々たる光りと共に新生命は湧いて來た。新たなる柱が、敢て、昔程太いとは云はない。されど、新しいのである、若いのである、奮勵と努力との未來を控へえる希望あるものである。諸君の御厚諠に應へ得る日も遠くはあるまいと庶幾する。

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